📓経済学者たちの闘いーエコノミックスの考古学

リーダーシップ
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日銀の若田部副総裁

中学校の社会科で、「日本銀行」はわが国唯一の中央銀行だと教わる。日本銀行は、「日本銀行法」によりそのあり方が定められている認可法人であり、政府機関や株式会社ではない。日本銀行法では、日本銀行の目的を、「我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うこと」および「銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資すること」と規定している。

日本銀行には、役員として、総裁、副総裁(2名)、審議委員(6名)、監事(3名以内)、理事(6名以内)、参与(若干名)が置かれている。このうち、総裁、副総裁および審議委員が、政策委員会を構成する。今回取り上げるのは、副総裁のひとりである若田部昌澄氏が早稲田大学政治経済学部で経済学史を教えていたころの著作『経済学者たちの闘いーエコノミックスの考古学』だ。

本書は若田部氏が、作家で元東京都知事の猪瀬直樹氏が発信していたメールマガジン「日本国の研究」に連載したコラムがベースになっている。また若田部氏は、著名なエコノミストをバッサリと批評する『エコノミスト・ミシュラン』という痛快な企画にも参加していた。

この本について若田部氏は、単なる経済学史ではなく、過去を語りつつ現代を語り、現代を語りつつ過去を語ることを目標に書いたという。経済学は未来予測ができないという意見が少なくない。だが、全然当たらないというほどではない。

英語で ”economist” というと、学者にかぎらず経済の専門知識を利用する人たちがすべて含まれる。日本では、経済学者というと、たいていは大学で教鞭をとる学者を指し、「エコノミスト」とは別の存在になる。ヘンリー・ソーントンやデイヴィッド・リカードウという人は、それぞれ銀行家と株式仲買人であって大学人ではなかったが、経済学の歴史のなかで輝かしい位置を占めている。若田部氏は、日本において、経済学者とエコノミストが分裂している背景には、この国の経済学とその利用をめぐる重大な問題が隠れていると語る。

過去の経済学者たちが当時の経済問題にどのように取り組んだのかを明らかにすることで、今日の経済問題を考える道筋を考える。

経済学者とは何者か

今から見ればたいへん理解に苦しむことだが、18世紀初頭から中葉にかけて、多くの論者たちはイギリスの競争力衰退に著しい危機感を覚えていた。景気の落ち込みや価格の高騰、あるいは植民地での違法貿易の増加を理由にする「貿易衰退論」が盛んになっていた。

政府の政策ミスを批判し、競争力の強化・維持のために、もっと政府の適切な介入が必要だと主張した。また競争力衰退の原因は、外国の意図的な妨害や、労働者の高賃金をあげていた。しかし、これらの主張は、政治的な思惑が強かった。貿易衰退論者たちは、既存の立法措置の擁護を要求、競争力向上に名を借りて、特定産業の権益を弁護したのである。

哲学者として高名なデイヴィッド・ヒューム(1711~1776)は、その主著である「人間本性論」などで、あるがままの人間性から出発し、積極的な経済発展のヴィジョンを語った。貿易は双方に利益をもたらすこと、賃金が高くなることは「大多数の幸福」にかなうとして、政府介入に頼ろうとする貿易衰退論を打破していった。

「国富論」で知られるアダム・スミス(1723~1790)は、オックスフォード大学在学中、退屈極まりない大学の講義に愛想をつかして、寮でヒュームの「人間本性論」をこっそり読んでいるのを見つかり、とがめられたという話が残っている。そのヒュームとスミスは、無二の親友となった。同じスコットランド出身ということのほかに、二人が当時のイギリスにおいて、既得権益打破のために闘った「同志」でもあったのである。

古典とは何かという問いに対し、「誰も読まないが、誰もが良い本と認めるもの」という皮肉な答えがある。スミスの「国富論」は、まさにこの定義にぴったりとあてはまる。国富とは、資産ではなく、ここではむしろ「国民所得」とするほうがわかりやすい。富が増すことは経済発展である。スミスは、経済発展が「社会の圧倒的大部分を占める労働貧民」の生活水準を向上させるとして、その必要性を説いた。この考えは、1998年度ノーベル経済学賞を授賞したインドのアマルティア・セン(1933~)の議論に近い。

その富を増やす要因として、スミスは分業と資本蓄積をあげる。資本蓄積と生産性向上の累積的な関係が、現代の経済発展論で再び注目が集まっている。スミスは、今日盛んにいわれる「収穫逓増」を仮定していたと考えることもできる。そして、自由な競争が確保されているならば、資本をはじめとする資源が有利な分野をめがけて投下され、国富の最大限の増大が達成されると主張したのである。

スミスの矛先は、さまざまな独占と、その背後にある既得権益批判に向けられた。国家の干渉が不足しているからではなく、国家による不要な干渉こそが経済をゆがめている。自由貿易こそが重要であると唱えた。

これが前述の貿易衰退論に対する最も痛烈な批判になった。ではすべてを市場にまかせてよいのか。有名な「見えない手」をすぐに思い浮かべるが、実はこの言葉は、「国富論」全巻を通じて一度だけ、外国からの輸入制限を批判する文脈で使われているだけなのである。むしろ同書の最後にある第5編では、政府の果たすべき役割を述べている。

スミスにとって、自由貿易の推進は、特権階級の既得権益を打破し、国民の大部分を占める労働貧民が恩恵を受けるように経済発展を促進するためのものだったのである。その改革を誰が担うのか。スミスが重視した基準は、知識と利益だった。社会の発展について正しい知識を有し、しかも社会の発展から利益を得ることを考えなければならない。

しかし、スミスの導き出した結論は、悲観的だった。どの社会階層にも、どちらかが欠けていたのである。利益を見出す集団は、それを実行するための知識がなかった。アヴィナッシュ・K・ディキシットは、『経済政策の政治経済学』(日本経済新聞社)の中で、改革が進むのは、改革からさまざまな利益を得る集団が、改革への抵抗勢力を打破するときであると書いている。これにスミスの「知識」を加えると、現代にも通じる。

スミスのこうした考えによって、すぐにイギリスにおいて自由貿易が実現したわけではない。既得権益の打破も十分ではなかった。思想的影響でも、スミスの権威が確立するのは19世紀に入ってからのことである。

ジョセフ・シュンペーター(1883~1950)が好きだという経済学者は多い。とくに日本では、中山伊知郎、東畑精一、都留重人など、個人的にシュンペーターと交友があった人たちが、日本の経済学界で指導的な役割を果たし、その著書の大半が訳出されたことも関係している。だが、それだけでなく、『経済発展の理論』で、革新を遂行する企業者活動を資本主義の本質と喝破した彼の洞察が、この革新の時代にマッチしたことを軽視できない。

シュンペーターの理論にも、現在では受け継がれていない、景気循環論がある。革新の前に「循環」と呼ばれる状態があり、そこに革新的な企業家が登場し、経済に「発展」というダイナミズムをもたらすと考えた。また、景気を安定化させるための政府の介入について、有害無益と断じた。もともと経済の循環は、資本主義の自然の姿であり、心臓の鼓動のようなもので、金融緩和政策はモルヒネのような痛み止めにすぎないとすら言っている。

シュンペーターの議論の致命的な弱点は、この成長と循環の関係についての洞察が一面的なことである。一言で言えば、雇用・利子・貨幣についての理論が弱い。本質的には、シュンペーターは、貨幣の問題を自分の体系にうまく組み入れることができなかったのである。だが、J.M.ケインズの「貨幣論」が1930年に刊行されたことが大きかったとも考えられる。第一次世界大戦前に、すでに主著の構想をすべて完成させていたという彼の早熟さが裏目に出てしまったというべきか。

好き嫌いはともかくとして、20世紀最高の経済学者といえば、やはりケインズをおいてない。いささか平凡な答えだが、彼しかいない。

ケインズが行った仕事は、絶対王政を打倒したフランス革命のようなものというよりは、諸派入り乱れるなかでの16世紀宗教改革後のヨーロッパに台頭した反宗教改革のようなものだったといえよう。

ケインズの政策というと、現代の日本では、公共事業による財政政策の代名詞となっていてイメージはよくない。しかし、ケインズが一貫して格闘してきたのは、貨幣と金融の問題だった。物価変動がもたらす、名目値と実質値(賃金や利子など)の乖離が経済に悪影響を及ぼすことを理論的に説明した。

第一次世界大戦の後、イギリスが金本位制に戻るべきかが問題になったとき、ケインズは戻るべきでないと主張したが、時の大蔵大臣ウィンストン・チャーチルはこれを受け入れなかった。ケインズにも迷いがあったが、旧平価による金本位制復帰が深甚なデフレ効果をもたらすところまでは見通していた。しかし、デフレがなぜ経済を長期に停滞させるかは分析していない。

多くの挫折を味わったケインズが、その腕を発揮したのは、よく知られているように、第二次世界大戦後、ブレトン・ウッズで開かれた、国際協調による管理通貨制度について議論が行われた国際会議であった。これがケインズの最後の闘いになった。アメリカが主導する戦後秩序形成の過程で、喪われゆく祖国イギリスの経済的地位を最大限に確保することと同時に、大戦間の経験を生かして、いかに第二次世界大戦後の世界経済を安定的な通貨秩序に向けて軟着陸させるかをめぐる闘いでもあった。

このところ、西部邁氏『エコノミストの犯罪』、斎藤精一郎氏『斎藤教授の日本経済入門』、金子勝氏とテリー伊藤氏『入門バクロ経済学』など、経済学批判、経済学者・エコノミスト批判の本が矢継ぎ早に刊行されている。

佐治信行氏(みずほ証券チーフエコノミスト:当時)のコメントほど、日本における経済学のイメージを如実に伝えるものはない。「マクロ政策が行き詰まり、景気を見るうえで従来のマクロ経済理論は通用しなくなっている」と断じる。

経済学者といい、エコノミストいい、普通に考えて、その議論の基礎は経済学でなければならないはずだ。経済学は、彼らの商売道具ですらなかったのかという疑念を抱かせる。日本経済の危機でもあり、その一因ともいえる「経済学の危機」にほかならない。

経済学者が経済学を擁護せず、エコノミストがあからさまに経済学を軽視し侮蔑し、そしてメディアには無責任な経済学批判が跳梁跋扈している。経済学者、エコノミストが第一に果たすべき役割は、なによりも正しい経済分析を行うことである。

日本銀行の政策委員会

当初予想していたより読みやすく面白い。普通に「経済思想史」のようなものを書き下ろすと、「読む睡眠薬」になってしまい、この本のようにはならないだろう。もともとメールマガジンの連載コラムだったことが、この本を手色の変わった経済学史にしているのかもしれない。

テレビに出たり、ビジネス書を書いている経済学者やエコノミストの多くは、闘う経済学者ではなく「評論家」と分類されると思う。評論とは、誰かの意見や行動を批判的にコメントすることで注目を集め、対価を得る職業なのだ。

経済学者やエコノミスト を名乗るのなら、正しく分析結果を導き、それを論文として検証可能な状態にしたり、または政策提言としてまとめるのが仕事だろう。それをこの本で指摘した若田部氏は、自身が日本銀行の最高意思決定機関として設置されている「政策委員会」のメンバーのひとりになった。

目次概略

若田部昌澄著『経済学者たちの闘いーエコノミックスの考古学』の目次概略は以下の通り。

第1部~経済学者たちの「勝利」と「敗北」
1.「欲張りなのはよいことだ」-マンデヴィルの世界
2.バブル崩壊後の経済学-280年前のバブルと2人の銀行家
3.何のための「セーフガード」か?-ヒュームと既得権益との闘い
4.誰が改革を担うのか?-スミスと既得権益との闘い
5.歴史のなかの開発主義者たち-ハミルトンから村上泰亮まで
6.ソーントンの前例なき要求-中央銀行の責任(1)
7.リカードウの新平価解禁論-中央銀行の責任(2)
8.「影の大蔵大臣」バジョット-中央銀行の責任(3)
9.経済学者は冷血動物なのか?-J.S.ミル対反経済学者たち

第2部~20世紀最高の経済学者は誰か?
10.景気が良くなると改革が進まない?-シュンペーターとしごき的構造改革
11.デフレと金本位制復帰-1925年春、ケインズの敗戦
12.1930年代の「非正統的な」政策-ヴィクセルとその同僚たち
13.終わりなき闘い-その後のケインズ

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