経営リーダーのお手本
小倉昌男氏は2005年に他界されているので若い人は知らないだろうが、私の世代にとっては、「リーダーシップ」のお手本のような経営者だ。クロネコでお馴染みのヤマト運輸の二代目社長で、まさに『宅急便』を生み出した人物。
日本経済新聞朝刊の人気連載「私の履歴書」で2002年1月に小倉昌男氏が登場した。この連載を楽しく読んだにもかかわらず、後日発売された『経営はロマンだ!』で再読した。
宅急便は、夏休みのバイトでお世話になっているだろうし、日常生活の当たり前の存在になっているが、小倉氏のリーダーシップでヤマト運輸がこの新事業を開始するとき、役員から猛反対があったらしい。しかし、意外にもこれを支持してくれたのは、労働組合だったのである。1973年の第一次オイルショックによる経営危機に、組合員の解雇をしない約束をしたことの恩返しでもあったのだろう。
1976年、関東一円を対象に宅急便を開始した。初日の荷物はわずか11個。取扱荷物は一向に増えなかったが、小倉氏は社員に、とにかくお客さんへのサービスに力を入れるよう指示を与えた。「利益はあとだ」という信じられないスローガンを掲げたらしい。
そして、1984年度、宅急便の取扱個数は1億5,000万個強となり、ついに郵便小包を追い越した。この間、運輸省(現・国土交通省)や郵政省(現・総務省)の官僚からは、ずいぶんと妨害を受けた。
1995年、小倉氏はヤマト運輸の役職からすべて離れ、ヤマト福祉財団を設立して、福祉施設の支援などを行っている。障害者たちが働く作業所を見て回って驚くより怒りを覚えた。平均でも月給が1万円、なかには1000円というところもある。福祉の現場の「経営改革」が必要だと思うようになった。
こんな話が『経営はロマンだ!』に書かれている。
二代目社長の非常識な発想
1919年に父の康臣は30歳で念願の大和運輸株式会社を創立した。1969年、50周年を祝う直前に父は脳梗塞で倒れ、以後社長にはとどまっていたが、車椅子の生活を余儀なくされた。専務だった著者は、毎週土曜日、療養生活を送っている父のもとに決裁書類を届けなければならなかった。このときの経験から「トップが長く居座ると”老害”になる」という教訓を学んだ。
1971年、46歳で二代目社長に就任したが、会社はガタガタの状態だった。追い打ちをかけるように、1973年、第一次オイルショックが起こる。大口貨物集中の営業政策をとっていたこともあり、荷動きが急激に落ちた。
この存亡の危機に、労働組合には、雇用は守るが可能なかぎりの協力を要請。会社側も役員報酬を減らし、ゴルフ会員権もすべて売ることにした。役員の車も廃止し、自分も電車で通った。
コスト削減で石油ショックの窮地はしのいだが、会社は火の車だった。原因は大口貨物偏重にあることは明らかだった。他社のように、小口の荷物を運ぼうと指令を出したが、いったん小口の荷物を断っていただけに、顧客は怒るばかり。社内でも著者の朝令暮改ぶりに不信の声が上がった。
そこで理想的な輸送会社像とはどんなものか、自問してみた。答えは「全国どこへでも、どんな量の荷物でも運べる会社」だった。そのとき、以前読んだ牛丼の吉野家の新聞記事が頭に浮かんできた。メニューを牛丼に絞り込んだら、利益が増えたという話だった。品数を減らせば客も減るというのが普通なのに、吉野家はその逆をやって客を増やしたのである。
あるとき、息子の洋服のお古を千葉に住んでいた弟の息子に送ってあげようと思った。ところが、運輸業の社長なのに送る手段がない。当時の運送会社は、企業を顧客としており、家庭から出る荷物など相手にしていなかった。国鉄小荷物と郵便小包はあったが、「荷札をつけろ」「ひもでしっかり荷造りしろ」といった面倒な指示が多いうえ、日数もかかる。家庭の主婦は日ごろ不便な思いをしているに違いないと思った。
1973年9月、著者はニューヨークに行き、マンハッタンの街を歩いていて、十字路の周囲に米大手運送会社のユナイテッド・パーセル・サービス(UPS)の集配車が4台停車しているのを見た。この光景を見てハッとひらめいた。「宅急便は成功する」。内なる確信を得た瞬間だった。
しかし、当時の運送業界では、著者の発想は非常識だった。役員に根回しを始めたが、全員反対。相談役になっていた父も首を横に振った。わずかに賛成してくれたのは、労働組合の三役だった。1973年の石油ショックの後、組合員のクビを切らなかったことで信頼を得ていた。また、貨物量の少ない地方の組合員は、東京など大都市圏の応援勤務に嫌気がさしており、地元で仕事ができるなら何でもやろう、という空気があったようだ。
1975年夏、新事業の構想をまとめ、役員会に提出した。ブツブツと陰にこもって反対し続ける役員を押し切り、了解を取りつけた。ワーキンググループをつくり、わずか2カ月で計画を練り、1976年1月、社運を賭けて宅急便の営業を開始した。関東一円を対象に「翌日配達」をアピールし、料金は家庭まで取りにいく場合500円、営業所への持ち込みは100円引きにした。しかし、初日の取扱個数はわずか11個。最初の1カ月でも9000個に満たなかった。
当社の全員が採算に不安を持っていたし、著者自身も内心、厳しいなと思った。しかし、役員や社員に早く利益を出せとは言わなかった。逆に、会議のたびに「サービスを最優先にしてほしい」と口を酸っぱくして話した。
1984年度、宅急便の取扱個数は1億5000万個強となり、ついに郵便小包を追い越した。さまざまな妨害を受けた官僚についに勝てた。
当時、路線トラックは免許制だった。1980年、国道20号線(山梨路線)の免許を申請したが、運輸省(現・国土交通省)は申請書類を引き出しにしまい込んでいた。競争激化を懸念する地元業者が反対していたためだ。1981年に申請した北東北路線の免許も棚ざらしにされた。1986年8月、橋本龍太郎運輸相を相手取り、東京地裁に「不作為の違法確認の訴え」を起こした。監督官庁に対する前代未聞の行政訴訟である。運輸省は裁判で勝つ自信がなかったのだろう。運輸審議会の公聴会が開かれ、12月に免許が出た。
宅急便の料金は、10キログラムまでのSサイズと、20キログラムまでのMサイズに分かれていた。あるとき、女子学生と話していたら、「友だちとノートの貸し借りに宅急便を利用しているが、もっと料金を安くしてほしい」と言われた。もっともだと思ったので、1983年3月、2キログラムまでのPサイズを新設するため、運輸省に運賃の認可を申請した。同省の返事はノーだった。運輸省に別のことを妥協する条件に、Pサイズの申請書受理を取りつけたが、いざとなると申請書を受理しない。
こうなれば、マスメディアを味方につけようと、5月17日付の新聞各紙にPサイズを6月1日に発売するという広告を出した。それでも同省は動かない。そこで、5月31日付の新聞に、発売延期の広告を出した。消費者へのお詫びとともに、「運輸省の認可が遅れているため、発売を延期せざるをえなくなりました」と書いたのである。これを見て、同省の杉浦喬也事務次官は激怒したらしい。怒りたいのはこちらのほうである。けっきょく、規制緩和の世論に押される形で、1983年7月に認可を発表した。
郵政省(現・総務省)も、郵便法第5条を盾に、ダイレクトメールやクレジットカードの配達業務が郵便法違反だとするなど、さまざまな圧力をかけてきた。郵便法違反は、「3年以下の懲役、または100万円以下の罰金」という重い罰則を規定している。それも運輸業者だけならともかく、荷主も同時に罰せられるのである。大勢の荷主が郵便に切り替えた。
社長の定年制を定め、1987年62歳で会長に退いた。会長就任を機に、日常の経営は後任社長に任せて、現場を見て回ろうと思った。社長時代はなかなか、現場を見る時間がとれない。
過疎地域への配達サービスは採算が悪いと考えていたが、信号が少なく、渋滞がないから、輸送効率がいいという面もあることを知った。都会からの荷物の発送も増える。ネットワークを広げ、全国どこでも荷物を届けるというキャッチフレーズは、営業政策上の強みになった。
1991年、会長を退任して取締役相談役になった。経営から徐々に引いていくつもりでいたが、あるとき組合から聞き捨てならない情報が上がってきた。営業所長など現場のトップが、車両や荷物の事故を本社に報告せず、隠すケースが増えているというのである。調べてみると事実だった。管理職としての評価に傷がつくのを恐れたのであろう。
1993年、2年限りと宣言して会長に復帰し、大掃除をすることにした。ウソをついた管理職には降格などの罰を与えた。このころ、管理職の人事評価は「人柄」を基準にすべきだと思うようになった。成果主義は考え方としては正しいが、測定が難しい。「誠実」「部下の面倒見がいい」といった人間性を重視したほうがいい。これが企業風土になれば、客に対しても誠実な社員が増えるはずだ。
取締役に残って、役員会で発言できる権限を残すべきかと考えたが、取締役が社長ではなく、いまでも著者の顔をうかがっていると聞き、すっぱり辞めることを決意した。1995年6月、ヤマト運輸の一切の役職から離れた。
会長引退後は社会への恩返しに福祉の仕事をしようと、1993年9月、所持していたヤマト運輸株300万株のうちの200万株(時価24億円)を寄付して(2001年に残り100万株も寄付)、ヤマト福祉財団を設立した。心身に障害のある人たちの「自立」と「社会参加」を支援することをめざした。
障害を持つ大学生に毎月5万円、4年間支給している(2001年4月現在、30人の学生)ほか、障害者の親たちがつくった作業所に1件100万円、年間4700万円程度の助成を行っている。低金利時代だから財団の運営はどこも楽ではない。それを知り、ヤマト運輸の労働組合が、夏のボーナス時に組合員4万人に1人1000円のカンパを募り、寄付してくれることになった。
このような作業所を回って気づいたことは、障害者に支払っている賃金が平均で月1万円、なかにはわずか1000円、2000円というところもある。これはあまりにひどい。やっている仕事が、カタログの丁合いやふきんの縫製などであり、仕事の内容に問題があると感じた。福祉の現場の「経営改革」が必要だと思うようになった。
福祉関係者を相手に経営セミナーを始めた。従業員に月額10万円を払える事業を考えなければだめだと辛口の説教をしている。福祉の「常識」は、経済人から見ると「非常識」なのだ。
広島のタカキベーカリーの高木誠一社長の助言と応援もあって、パン屋を開くことになった。1998年、スワンベーカリー1号店を東京・銀座にオープンした。障害者たちがパンを焼き、月給を10万円もらっている。1999年開店した2号店では、待っていても客が思うほど来ないので、障害者たちが区役所や病院、学校、消防署、警察などに売りに行くことになった。
炭焼き名人の杉浦銀治さんとの出会いがあり、2001年、福岡県嘉穂郡頴田町にある福祉施設「カリタスの家」の敷地内に炭焼き窯をつくり、炭焼きの仕事も始めた。
ヤマト運輸の経営者として宅急便という結果を出した著者だが、福祉の分野ではまだ駆け出しである。結果を出すのはこれからだ。
本物のリーダーシップが学べる
小倉昌男には有名な『経営学』という著作がある。こちらは個人の歴史というより、経営に関する生きた教科書のような本だと思っている。
何事にも一貫して筋を通す姿勢は、プリンシプル(原則)を重んじる紳士の気質に原点があるのであろう。個人の生き様としても憧れを抱いてしまう。
何かの大きな壁にぶつかったときや、本当のリーダーシップとは何かを学びたいときには、この本が与えてくれるメッセージがきっと役に立つはずだ。
先人(この場合は父親)の失敗から同じ轍を踏まないという謙虚な姿勢。様々なピンチに遭遇しても、それを新しいアイデアを試すチャンスと捉える前向きな発想。そして、普段から最善のサービスを継続することが、その後の発展につながるという考え方。
本物の経営リーダーのモノの見方・考え方を知るには最高の教科書だ。