柳井正氏本人の著作
今回取り上げる『一勝九敗~ユニクロも失敗ばかりだった』著者の柳井正氏は、ご存知の通り、短期間のうちに急成長したユニクロの創業者である。日本人の中では1-2位を争う大富豪。常に高い目標を掲げて仕事に邁進する姿は、ビジネスの世界に生きるものにとって怖い存在でもあり、また、理想の経営者像でもある。
父親が1949年、山口県宇部市で「メンズショップ小郡商事」という紳士服店を始め、その年、柳井正氏は生まれた。大学を出てからスーパーでの10カ月の勤務を経て、父親の会社に入る。その父親が脳溢血で倒れた1984年に、ユニクロ1号店を出し、父に代わって社長に就任した。それまで父の仕事を手伝いながら、紳士服販売に限界を感じていた著者は、カジュアルウエアで郊外型店をやったら面白いかもしれないと考えるようになった。
広島市に出したユニクロ1号店は大人気だった。多店舗展開を始め、1994年には直営店が100を超え、広島証券取引所で上場を果たす。
1998年、ユニクロ原宿店をオープン、フリースキャンペーンが話題となり、その後急成長を続け、2001年度の売上高は前年比82.8%増の4,186億円、経常利益は前年比70.7%増の1,032億円となり、店舗数は507店に達した。しかし、同年イギリスにユニクロ店を出した頃から下降が始まった。
著者は、驚異的な成長を遂げる裏には、たくさんの失敗があったという。タイトルの『1勝9敗』はこのことからつけられた。ユニクロの歴史をつづりながら、後進の人たちに柳井経営哲学を語る。
失敗の要因は成功体験のなかに
1972年に父親が経営する紳士服小売の会社に入ってから何年か経って、下関、小倉、小野田、広島などの都市の商店街やショッピングセンター内に、3年間に1店舗ほどの割合で新店を作り、海外から好きな商品を買い付けて販売していた。だが、売上高は増えても、原価や経費も増えるので儲かるわけはなかった。婦人服の店も経営したが、紳士服に比べ粗利が低いうえに、トレンドサイクルが短く、うまくいかなかった。
その頃、アメリカの大学生協に立ち寄ったとき、学生が欲しがるようなものが豊富に品揃えされ、セルフサービスで、売らんかなという商業的な臭いがなく、買う側の立場で店作りされていることに強い印象を受けた。こんな形でカジュアルウエアの販売をやったらおもしろいのではないかと思った。
10代の子供たち向けに流行に合った低価格のカジュアルウエアをセルフサービスで提供する。そんな店舗と商品のイメージが固まっていき、「いつでも服を選べる巨大な倉庫」という意味も込めて、店名「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」が決まった。
大都市に出て勝負したいという思いから、広島市の中心、本通商店街の裏通りに第1号店を出した。1984年6月のことである。100坪の店に、商品は1000円と1900円の2プライスを中心とし、朝6時からオープンしたが、開店してから2日間ずっと入場制限をさせてもらうほどの盛況だった。
店舗を徐々に増やしていったが、資金繰りはいつまでたっても楽にならない。低価格が売り物なので、商品の回転数が勝負だ。メーカーから仕入れてくる商品は、安いが品質は二の次だった。
商品が売れ始めると、メーカーを経由して海外で作ってもらうようになった。しかし、品質管理が整っていないため、粗悪品が含まれてしまう。仕入れ値が低いので、まともな商品をきちっと作ろうとすると生産工場は儲からないからだ。こうなったら自分たちで本格的に生産管理し、現地で直接作らないとだめだと思うようになった。
プラザ合意の後、1986年から急激な円高となり、海外からの輸入が有利になった。小売店の視察に香港へ行き、「ジョルダーノ」のポロシャツが目にとまった。低価格の割りには品質が高い。これだ、と思った。創業者のジミー・ライ氏に会いに行った。もともと彼は、アメリカの衣料品専門店チェーン「リミテッド」のセーターの生産も請け負っていた。年齢は著者と同じ。彼を見て「この人にできて、自分にできないはずはない」と思った。「商売には国境がないこと、製造と販売の境がないこと」を彼から学んだ。
1987年に「ユニクロ」オリジナル商品を手がけてみようと思い立った。
著者はユニクロを、アメリカのリミテッド、ギャップ、イギリスのネクストに比肩できる、その国を代表するようなファッションのチェーンストアあるいはSPA(製造小売業)にしたいとずっと願っていた。リミテッドは、80年代中盤に急成長を遂げて、短期間のうちに売上高1兆円となった。ネクストも、同時代に8年という短い間に、売上高20億円から2000億円に成長していた。著者は日本でも同じことができるのではないかと思っていた。
それには、ブランドを確立することと、他社とは違うことをやらなければいけないと考えていた。たまたま取引銀行の関係で、原宿の物件を紹介された。かねてから、東京に出るのであれば、都心部であり、都心部であれば原宿がベストと思っていた。バブル崩壊で家賃が低下、同業者の撤退などの要素が重なり、好機到来と感じていた矢先だった。
しかし、小売業やアパレルの店舗がひしめく原宿で成功するには、何か商品を絞って訴えないかぎり、お客様には来ていただけそうにない。原宿店開店にあわせてやったのは、「ユニクロのフリース¥1900」というコピーのキャンペーンだった。
原宿や渋谷駅のポスター、地下鉄の中吊りはすべてこの1点に絞って展開した。ユニクロ原宿店をオープンしたのは、1998年11月28日。1階から3階まである店舗の1階のフロア全部を、フリースで埋め尽くした。ねらいは見事的中した。お客様が長い行列をつくり、ファッション雑誌やテレビ番組で取り上げてくれるようになり、爆発的な売上げになった。
このときに成功した要因を考えてみると、商品を絞り込んだこと、良質な商品を1,900円という手ごろな価格にしたこと、そして新鮮味のある広告宣伝をしたことだろう。これらの連携が三位一体となり、うまくいったのだ。季節がフリースにぴったりだったのも幸いした。また、フリース目当てに来ていただいたお客様でも、他の商品を買っていただき、驚異的な売上げ増加につながった。
フリースという素材は以前からあったが、それほど一般的ではなく、登山やスキー用品などでは1着1万円以上もする相当高価なアイテムだった。当社では、以前から販売しており、97年までに年間80万点以上となり、まだまだ伸びると判断していた。
原宿店をオープンした1998年の秋冬は200万枚、1999年秋冬には600万枚を計画して実際には850万枚、翌2000年の秋冬は51色のフリースをそろえて1,200万枚を目標にしたところ、実際には2,600万枚を売り上げた。ユニクロ最大のヒット商品になったのである。
しかし、2002年8月期決算は、売上高は前期18.4%減の3,416億円、経常利益は前期比46.9%減の547億円となり、株式上場以来初の減収・減益となった。ユニクロブームの反動と新鮮味のある新商品の投入ができなかった結果だととらえている。
急成長する途上では、さんざん祭り上げておきながら、いざ失速となると「急成長は悪」「安定成長が一番」などとマスコミは書き立てる。みんな勝手な結果論である。良いときは良い面だけ、悪いときは悪い面だけしか書かない。日本人の感覚は競争社会にさらされて変化しつつあるのに、マスコミの競争意識は横並びのスクープ合戦に過ぎず、論調には何の独自性もない。
30年働けば、ざっと「20年の大成功と10年の大失敗」という図式が成り立つ。著者自身も気づいていなかったが、この失敗の要因はすべて成功体験のなかにあったのだと思う。つまり、成功のなかに失敗があり、それが成功の期間中に徐々に膨らみ、現在のていたらくを産んだのではなかろうか。
とはいえ、われわれは今が失敗だとは考えていない。2003年8月期の売上高(単体)は3,017億円で経常利益は469億円だった。この利益水準は、決して悪い成績ではないと思っている。
絶頂期の2001年9月、イギリスで海外初のユニクロをオープンした。結果的にこれは大失敗だった。21店舗まで拡大したものの採算がとれず、2003年3月、ロンドン市内と近郊の5店舗を残し、16店舗を閉鎖すると発表した。
なぜ最初にロンドンにしたのか、アメリカという選択肢はなかったのかとよく質問される。世界の大都市に店舗展開をしたいと考えていたので、候補はニューヨークか、ロンドンか、パリになる。ニューヨークは市場が大きく商圏が広いため、成功するにはすぐにも200店舗はつくらないと勝負にならない。パリは世界のファッションの中心地という自負が強く、外国企業に対して排他的なところがある。結局ロンドンということになる。
イギリスでの失敗は、経営者の選択に原因があった。海外の現地法人は現地の人が経営をしないとうまくいかないと考えていたため、紹介されたイギリスの老舗デパートでの勤務経験のある人を社長に採用したのだが、イギリスの文化の反映もあって、保守的な経営陣や組織になった。
経営者から店員まで、それぞれに階級・階層をつくり、壁ができてしまった。現場の社員だろうが社長だろうが、壁をつくらず対等に、みんな一緒になって話し合って実行する当社の企業風土からはほど遠いものだった。店は汚く、店舗社員の訓練もぜんぜんできていない。社長に注文をつけても、「できない理由」を並べる。ユニクロの商売をイギリスで実現できなければ意味がない。
他にも失敗の原因があった。これは完全に著者の責任だが、「3年間で50店舗をつくる」「3年間で黒字化」を打ち出したが、「3年間で50店舗」という言葉が一人歩きし、とにかく店をつくることが第一となり、ひたすら拡張していったことだった。高い家賃でも出店し、店舗展開のため人件費にも金をかけていった。情報システムや教育研修はなおざりにされた。まずは1店舗から儲けを出すことから始めて、儲かる仕組みを徐々に拡大していく道を選ぶべきだった。
商品展開の面でも問題があった。日本と同じように夏にドライのポロシャツを売り出したのだが、ぜんぜん売れない。当たり前だった。イギリスの夏は日本のような湿気がないので、ドライのポロシャツなんて必要なかった。
イギリス人と日本人とで嗜好や消費マインドにあまり違いはない。商品の良さと価格をうまくアピールできなかったことが問題だった。イギリス人は商品の価値に気づき、納得してからでないと買ってくれない。衝動買いはしない。生産・販売・在庫のバランスがとれなかったことも問題だった。そのため見切り販売がくり返され、「安値販売」がデメリットになっていった。
生きた教科書
個人的にファッションが大好きで、20歳代前半の遊び場は原宿周辺だった。それもあって、ユニクロ原宿店がオープンしたときの衝撃を今でも覚えている。あの時から日本のカジュアルウェアのパラダイムがまったく変わってしまった。
このコラムを書いている時点で、ユニクロ原宿店はJR山手線「原宿駅」の真ん前にある。徒歩1分以内だ。2020年6月に原宿エリアでは8年ぶりにオープンした原宿店は、リアルとバーチャルを融合させた最新型の店舗。原宿らしく、若者を意識した広告ビジュアルやスタイリング、サービスを通し、ファッションの情報発信基地となることを目指している。
国内外のユニクロを傘下に持つ株式会社ファーストリテイリングが公開している連結業績推移を見ると、直前期である2020年8月期の売上収益は、世界的な新型コロナ感染症による売上減の影響を受けながらも2兆円を超えている。この本に書かれている時点での売上が3000億円台なので、それから1兆7000億円の成長を成し遂げている。間違いなく、日本を代表するファッションのSPA(製造小売業) である。
以前から何かと批判を受ける柳井氏だが、この本を読んでいると、成功も失敗も客観的にとらえると同時に、考えて考えて、考え抜いて経営をしていることが感じ取れる。失敗した時は、撤退の速さが鍵になるということは学ぶべき教訓だろう。
経営者を目指す者や、マネジメントを志す者にとっては、壁にぶつかったときの生きた教科書になると考える。柳井氏はこれ以外に何冊か著作を出しているが、この本を書いたタイミングが「成長後の翳りが見えてきたとき」だというのがその理由だ。柳井氏が深く悩んで行動を起こし、その結果について考え抜いてまた行動を起こすという過程がリアルに描かれている。マネジメントの仕事はこの繰り返しだということが臨場感をもって追体験できる。
目次概要
柳井正著『一勝九敗~ユニクロも失敗ばかりだった』の目次概要は以下の通り。
- 家業からの脱皮
- 挑戦と試行錯誤
- 急成長からの転換
- 働く人のための組織
- 失敗から育てる次の芽