苅谷剛彦著『知的複眼思考法』

賢人に学ぶ
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ベストティーチャーの思考法

社会人になってから出会った本の中には、「学生時代に読みたかったなあ」と思うものがいくつかある。今回紹介したい苅谷剛彦著『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』もそのうちの一冊だ。社会にでると、ものごとを広く多面的に捉えることによって、または一歩引いて俯瞰することによって新しい機会を生み出す人に出会うことがあるが、この本はまさにその話を書いている。

本書は、1996年に単行本として発行され、2002年になって文庫化された。もちろん今は電子書籍化されている。著者の苅谷剛彦氏は、本書の執筆当時は東京大学大学院教育学研究科教授。既に東大教授は辞職されているが、2020年に新書『コロナ後の教育へ~オックスフォードからの提唱』が出版されており、まだまだ現役の社会学者だ。

手持ちの本書にはカバーがついており、そこでの謳い文句は次の内容だ。

常識にとらわれた単眼思考を行っていては、いつまでたっても、自分の頭で考えることはできない。自分自身の視点からものごとを多角的に捉えて考え抜く-それが知的複眼思考法だ。

情報を正確に読みとる力。ものごとの筋道を追う力。受け取った情報をもとに自分の論理をきちんと組み立てられる力。こうした基本的な考える力を基礎にしてこそ、自分の頭で考えていくことができる。

全国3万人の大学生が選んだ日本のベストティーチャーによる思考法の真髄。

苅谷氏がこの本を書くキッカケは、教壇に立ち、学生と対峙したときであるらしい。ということは、この学生とは東大生であり、教壇での講義は最高学府の社会学なのだろう。勉強熱心ではあるが、自ら問いを探したり、それを上手に表現することになると、発想の堅さが目につく学生たちを前に、苅谷氏は、どうすれば新しく何かが見えてくる瞬間のスリルを伝えることができるかを考えた。

読む側を学生と想定しているからなのか、または読者が実践することを念頭に書いているためなのか、非常に読みやすいという感想を持った。


メタの視点に立つことは有効

単眼思考と複眼思考と、どこが違うのか。

多くの人は、ステレオタイプの、いわば常識にとらわれたものの見方をしてしまう。例えば、学生に教育問題について質問すると、ほとんど誰もが「受験競争を勝ち抜く過程で、他人を蹴落とし、友だちを作るのがうまくいかない」という。しかし、「君自身はどうか」と質問すると、「僕自身は違う」とか、「友人の〇〇君はそうでもない」といった意見が出てくる。自分自身や自分の身近な人のことは棚上げして、世間に広まっている「常識」にとらわれている。「頭はよい」かもしれないが、「堅い発想」しかできない。

著者自身がはっとした複眼思考の例をあげよう。

オウム事件で、あるテレビ局が、教団関係者に報道用ビデオを見せたかどうかをめぐって、社会から避難をあびた。結局、国家権力の介入を許さないためにも、事件の真相を放送局自身が明らかにすべきだということになった。この意見は、一見すると、たいへんもっともである。「報道の自由」「国家権力の介入」といった決まり文句が、人々になるほどと思わせる効果を持つ。

しかし、ある番組のなかでコメンテイターが、「たしかに国家権力の介入は許すべきではない。しかし、自浄といっても、放送局側の自粛によって問題を解決しようとすると、かえって国家との緊張関係がなくなりはしないか」と発言した。これを聞いて、著者は目から鱗が落ちる気持ちがした。「国家の介入」という事態を、そのまま「権利の剥奪」と結びつけて見てしまう単眼思考に対して、国家の介入と報道の自由との関係を、緊張関係を含めてもっと幅広くとらえ直す。ここにステレオタイプにとらわれない、複眼思考のすぐれた見本を見ることができる。

いまや電子メディアの普及で、たいていの知識や情報は、本を読まなくても手に入るようになった。最近は、映像・音響メディアからも、深い感動や楽しみを得ることができる。しかし、本でなければ得られないものがある。それは、知識の獲得の過程を通じて、じっくり考える機会、つまり考える力を養うための情報や知識との格闘の時間を与えてくれることだ。本を読む場合、著者との関係が重要である。むやみに有難がったり、書き手のいい分をそのまま納得してしまう受け身の姿勢ではなく、立ち止まって考え、著者と対等の立場で、自分で考える姿勢が、複眼思考に求められる。

どんなに偉い著者でも人間である。だから間違えることもあれば、気づかないうちに飛躍して文章を進めてしまうこともあろう。根拠としたデータが不正確なこともある。いい加減さや、間違いや、論理不整合な部分の混入も含めて、さまざまな可能性のうちの一つのかたちとして、目の前の活字があると考えたほうがよい。

知識を受け入れようとするだけの読書では、なにか勉強したつもりにはなっても、なかなか自分で考えるようにならない。知識受容型から知識創造型に変わるためには、考えるための批判的な本の読み方が重要になる。

著者は数年前まで、大学で三年生を対象にした「教育社会学調査実習」というゼミを担当、学生たちに、教育をテーマにアンケート調査を行わせ、データを分析して報告書を書かせた。これを翌年、同じ実習ゼミを受けている新三年生たちに読ませ、五月祭で、これを書いた先輩たちの前で報告し、批判させるというやり方を試みた。辛辣な批判があびせられ、先輩たちは、後輩の批判にたじたじとなることもあった。

この時、批判が非難でなく、建設的な批判となるかどうかがポイントである。翌年は、三年生たちが批判される側になるわけだが、勉強を始めたばかりの時には、ほかの人の書いたものを容赦なく批判できるのに、いざ自分たちで同じように書く段になると、やはり後輩たちから批判される部分を残していた。先輩たちの書いたレポートの中に欠点を見つけることは容易だが、その批判は、自分たちが書く側に回った時の立場からの批判ではなく、まだ読むという立場からの一方的な批判なのである。

表現しようとすること自体が「考える」ことのたいへん重要な部分を担っている。同じ表現でも、話すことと違い、書く場合は、はっきりと考えを定着させることが求められ、もやもやしたアイデアに明確なことばを与えていくということである。だから、書くことで考える力もついてくる。

大学の授業で、学生に向かい、「何かコメントか質問はありませんか」と尋ねるが、誰も口を開く者はいない。無言が続いたあと、「〇〇について、みんなはどう思いますか」と聞いても、依然として無言状態である。講演会などでも同じで、日本では、誰も威勢よく手を上げて意見を言ったり、質問をするといった光景はめったに見られない。

「質問はありませんか」と聞かれた時、話の内容は大体わかったという場合には、質問が出なくても不思議ではない。何も疑問を感じなければ、質問のしようがない。

疑問を持とうとしない間は、自分から進んで考えていないことである。まずは、ものごとに疑問や疑いを持つことが、考えることの出発点になる。とはいえ、疑問はただちに考えることにつながらない。疑問を『問い』に変えていかねばならない。

「疑問」が感じるもの、思うものであるのに対し、『問い』は立てるものである。感じた疑問はそのままにしておくことができるが、問いを立てるということは、答える行為を前提にしている。問いの場合には、自分でその答えを探し出そうという行動につながっていくという点に、疑問と問いの決定的な違いがある。

著者が提唱する「複眼的思考法」とは、ものごとを一面的にとらえるのではなく、その複雑さを複数の視点から把握することを主眼にしている。そうした視点に立って、「常識的」なものの見方にとどまらず、考えることの継続・連鎖を生み出すような、思考の運動を呼び起こそうというものである。

マックス・ウェーバーが書いた「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本(1920年刊)については、どこかで耳にしたことがあるに違いない。資本主義といえば、金儲け、ぜいたくといったことを連想する。

一方、プロテスタンティズム、とくにカルヴィニズムは、キリスト教のなかでも「禁欲」を重んじる宗派。この一見して矛盾と思われることを結びつけて、倹約や節度を求める生活態度こそが、資本主義を生んだと、ウェーバーは主張したのである。

ウェーバーのこの本が、社会学の古典といわれるのは、当時の学者をはじめ、一般の人々にとっても、まさに脱常識の発想をしていたからだった。このような「逆説の発見」が、複眼思考の方法の一つなのである。

「なぜそれが問題なのか」と並んで、「ある問題を立てることで、誰が得をするのか、誰が損をするのか」という問いがある。このような、問題を取り巻く利害関係について問うことを、メタを問う問いと呼ぶ。「その問題が解けたら、どうなるか」というのも、メタを問う問いである。同じようなことがらでも、問題に関わる視点によって問題のとらえ方が違ってくることに注目しよう。

自分の頭で考えることは、けっして簡単なことではない。自分なりに考えているつもりでも、一つのことにとらわれ過ぎて、なかなかそこから抜け出せないこともある。そういうとき、メタの視点に立つことが有効になる。

自分のためのツール

インターネットの急激な普及によって、知識や情報を得ることが飛躍的に容易になった。以前ほど、情報を持っていることや知識があることに付加価値は見出せなくなっている。これからのビジネスマンの価値は「自分で考える力」による。これが全てではないにしても、否定できる人はいないはずだ。

21世紀に入ってからだろうか、自分で考えない人が急激に増えたのではないかと感じている。わざわざ考えなくても、誰かに聞けば回答を得られるものや、インターネットの検索エンジンで探せるもの、または、YouTubeで誰かが解説してくれているものは膨大な量になる。今はそういう時代だ。それでも、自分で考えなければどうにもならないという状況は必ず人間にはある。

そんなとき、苅谷氏の「複眼的思考法」は、ものごとを一面的にとらえるのではなく、その複雑さを複数の視点から把握することを薦めている。「当たり前のこと」を、そこにとどめず、考えることの連鎖を生み出すための問題設定にしてしまうのだ。

本書でいう『問題』を立てるという行為は、ビジネスの世界では、しばしば、『仮説』を設定するということに置き換わる。例えば、自分の今の仕事について「もっと生産が向上する施策」を問われたとき、すぐにいくつかの仮説を設定できるだろうか。

米国の有名コンサルティング会社では、「仮説思考」を実践することで迅速な意思決定を図るという。仮説思考とは、何らかの問題解決を考えるときに、常に仮説から考える頭の使い方のこと。仮説を立てては検証し、その結果をもとにまた別の仮説を立てるなり、元の仮説を修正する。これを繰り返すと本質的な問題解決に至るという。

苅谷氏の「複眼的思考法」は、別に難しいものではない。仕事や生活の中で実践してみて、自分のためのお役立ちツールとして使えるようになれば間違いなく視野が拡がるだろう。

目次概略

苅谷剛彦著『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』の目次概略は以下の通り。

序. 知的複眼思考法とは何か

  1. 創造的読書で思考力を鍛える
  2. 考えるための作文技法
  3. 問いの立てかたと展開のしかた
  4. 複眼思考を身につける

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