高橋伸夫著『虚妄の成果主義』

組織の運用
この記事は約8分で読めます。

成果主義に異を唱える

ここまでのコラムでは、日本の「終身雇用・年功主義」の人事制度・雇用制度・賃金制度が「能力・成果主義」に変わりつつあることを前提にさまざまな切り口で説明してきた。その背景には、働く意欲の話もあれば、高齢社員の増加、働き方そのものの変化などがあり、経営者は「会社がよくなるのであれば」という想いで制度の変更を実行してきた。

今回は、「終身雇用・年功主義」を否定せず、その素晴らしさを訴える『虚妄の成果主義~日本型年功制復活のススメ』という本を取り上げてみたい。

著者の高橋伸夫氏は、東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授で、経営組織論を専門とする。過去10年以上にわたって、かつては年俸制の導入、近年は成果主義の導入に対して、一貫して異を唱えてきた人物だ。東京大学大学院の高橋伸夫教授紹介のページには、以下の記載がある。

過去10年間に行ってきた研究テーマは大きく二つある。

第一は、日本企業の意思決定原理に関する研究と、その延長線上で、日本企業の人事・人材育成システムを論じたものである。特に、成果主義の批判と日本型年功制の再評価に関しては、純粋な研究以外にもかなりの時間を使って活動してきた。

第二は、知的財産権などを軸としたライセンス・ビジネスに関する研究で、これも研究だけではなく、発明の相当対価を巡る裁判などにも関与してきた。(後略)

引用: 東京大学大学院経済学研究科・経済学部:教員紹介>高橋伸夫

1990年のバブル経済崩壊後、日本企業が遭遇した経営困難に、多くの評論家やジャーナリスト、経営学者が、こぞって「日本型年功制」を批判し、アメリカ型の経営方式を評価し、「成果主義」導入の必要性を唱えた。しかし、現実には、成果主義はことごとく失敗に終わった。にもかかわらず、これがなぜ誤りだったかについては、成果主義を礼賛した経営学者は何も語ろうとしない。経営学が社会科学である以上、理論としての間違いがどこにあったかを明確にすることが義務づけられているはずである。

本書では、成果主義についてはほとんど触れず、もっぱら日本型年功制の素晴らしさについて書いてある。成果主義が効果のないことを指摘すれば、それは導入した成果主義が本当のものではないと、言い逃れされる恐れがあるためだ。本書が批判している「成果主義」とは、以下のいづれかだと明確に定義している。

  • できるだけ客観的にこれまでの成果を図ろうする努力
  • 成果のようなものに連動した賃金体系で動機づけを図ろうとするすべての考え方

共存共栄と共生の道

バブル崩壊後の1990年以降、急速に導入が進んだ年俸制や成果主義に対して、著者は過去10年以上一貫して反対の立場をとり続けてきた。その理由は、日本型の人事システムの本質は、給料で報いるシステムではなく、次の仕事の内容で報いるシステムだからである。

他方、日本企業の賃金制度は、動機づけのためというよりは、生活費を保障する視点から賃金カーブが設計されてきた。仕事による動機づけと、生活費保障給型の賃金カーブ、この両輪が日本の経済成長を支えてきたのである。

著者は、昔のままの年功制でも成果主義よりはましだと思っているが、「日本型年功制」にも改善の余地があるのも事実だと考えている。ただし、それは制度的な改善ではなく、運用上の改善でできることである。改善に必要なことは、次の3点である。

  1. 上司は自分なりに一生懸命に部下の将来のことを考えて評価を行っているということを明確に部下に示すこと
  2. やる気を失うのは、上司の仕事の与え方に問題があることもあり、そのために、定期的な人事異動や配置換えという日本固有の制度を活用すること
  3. 大企業のトップ・マネジメントであっても、将来を嘱望されるような従業員の人事に関心を持ち、社長であっても、課長クラスぐらいまでは、個人個人のことについて知っていること

1998年8月、米国の格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスは、トヨタ自動車の長期債格付けを「Aa1」に1段階引き下げた。その時の理由の一つが、「終身雇用」を維持するための努力が企業競争力を下げ、将来の経営へのリスクが高まるということだった。トヨタ側はこれに反論したが、格下げは撤回されなかった。

しかし、それから5年後の2003年8月になって、ムーディーズは、トヨタが今後も高い業績と良好な資本構造を維持するとみて、トヨタ自動車とその子会社の長期債格付けを「Aa1」から最高の「Aaa」(トリプルA)に戻したのである。トヨタが格付け会社の悪い評価にもめげず、従来通り「終身雇用」を維持して最高益を更新し続け、格付けを戻させたことを、日本の経営学者は素直に称賛すべきである。

1998年にムーディーズがトヨタの格付けを引き下げた時に、「だから日本の終身雇用制はダメなんだ」「いまどき終身雇用もないでしょう」と論評した経営学者、経営評論家、経営コンサルタント、マスコミ関係者、そして日本企業の経営者たちは、今後もその信念をもって主張し続けるか、あるいはこの場で懺悔するのか、どちらかを選択すべきである。

情けないことに、日本的経営を再評価する動きは、いつも海外主導で行われてきた。海外でわが国の経営が見直されると、それに背を押されるように日本の研究者の間にも日本的経営ブームが起きるのである。

日本的経営論の系譜の原点となるのは、1955年から1956年にかけて日本の19の大工場と34の小工場を訪問調査した結果をまとめたアベグレンの「日本経営」(The Japanese Factory 1958)だったといえよう。

この中で、アベグレンは、米国工場との決定的な違いとして、「終身コミットメント」に着目し、これが米国企業にない日本独特のものであると評価しながらも、不要な社員まで雇用することになり、生産性を著しく低める原因となっていることを指摘している。これをきっかけに、わが国で、日本の経営が前近代的とする学者の論文が国内でも数多く発表されるようになった。

しかし1970年代に入り、欧米の学者によって「日本的経営」の評価の見直しが行われるようになった。それまでの日本的経営に関する否定的評価が肯定的評価に変わったターニング・ポイントとなったのが、1971年にドラッカーが発表した論文だった。これにより、それまで後進性の象徴だった稟議制度が、欧米企業も見習うべき経営慣行に祭り上げられ、終身雇用、年功賃金、企業別組合などが、日本的労使関係の「三種の神器」になった。

アベグレンも、「日本の経営」の新版として、「日本の経営から何を学ぶか」(Management and Worker 1973)を出版し、旧版で終身雇用や年功賃金に対して否定的な評価を与えていた第7章「日本の工場における生産性」を丸ごと完全に削除してしまった。

その結果、多くの日本の経営学者がハシゴを外されてしまったのである。

オイルショックによる一時的後退の後、1970年代半ばからは、日本の研究者にとっても、日本的経営ブームが到来することになる。1980年代になり、目立ってきた米国企業の生産性の伸びの低下も手伝って、日本企業の生産性システムが世界の注目を浴びるようになり、日本経済がバブル景気に浮かれていた1990年前後に最高潮に達した。

このように日本的経営に対する評価は右往左往してきたが、その間、日本を代表する企業の現場レベルでは、驚くことに、ほとんど変わっていない。その原因の一つは、日本の内外を問わず、研究者が評価する際に、その尺度を常に外的基準に求めてきたということにある。表面的には「理論的な顔」を持っていたとしても、しょせんは後付けにすぎなかった。

日本国内での評価は、ただ海外での評価を追随しているだけだった。そのお先棒を担いできたのが、これまで輸入学問として、自分の頭と目を使うこともなく、流行ばかりを追いかけてきた日本の経営学であり、経営学者、経営評論家であったことは紛れもない事実である。

高い金銭的報酬を与えることで、人はよりよく働くとする実績主義だが、実際には、給与と仕事の中身のどちらを取るかと聞けば、食えないほどの安月給でもないかぎり、「面白い仕事」とほとんどの人が答える。

「年功序列」という言葉も、日本型人事システムの本質を正しく表現しているとはいえない。著者の考えでは、日本型の人事システムの本質は、給料で報いるシステムではなく、次の仕事の内容で報いるシステムなのである。これが繰り返されることで、仕事の内容自体に加速的に差がついてくる。昇進・昇格・昇給が進むのに応じて、差がついてくる。これは正確な意味での年功序列ではなく、「日本型年功制」と呼ぶべきものなのである。

終身コミットメントは、これから先の未来の付き合いを長くする。ゲーム理論の一種である囚人のジレンマが示すように、利害が対立する敵同士の間でも、両者が得をするために、協調関係が生まれ、維持されるようになる。終身コミットメントの存在は、組織内で協調行動を生み出し、共に繁栄する共存共栄、共生の道を指し示すのである。

経済的苦境に遭遇すると、すぐに「切る理論」に走る経営者がいるが、それは一時しのぎ、本来してはならない資源の削減や圧縮を繰り返す。その結果、終身コミットメントを壊してしまった後に残る殺伐とした風景のみが広がり、もはや共存共栄は存在しえない。

報酬制度に正解はない

著者が展開しているのは、事実を冷静に見て本質を語ろうという感じだろうか。流行に乗って「成果主義」推進をしてしまった経営学者や経営評論家に対し、自分のアタマで考えろと言っているかのようだ。本書での著者は成果主義批判をするのではなく、「日本型年功制」の礼賛を展開しており、かなり前向きに読むことができるだろう。

突き詰めて行くと、人がなぜ働くのかという問題にぶつかる。労働と報酬の間の因果関係について、統計データはあるのだろうが、そこに絶対的な真理とか、確たる原理はなく、会社により、人により異なるのではないかと思う。自分自身のこれまでの人生を振り返っても、新入社員だったときと、社会人5年目、10年目、15年目では、働く理由が全然違う。雇われる立場のときと、雇う立場では、労働と報酬の関係についての見方も変わった。もちろん、学問としての「経営学」は、その原理を発見しない限り、自己否定を繰り返すのかもしれない。

これまでのマネジメント経験から言えば、年功序列的な制度も成果主義も一長一短であって、ある一時点では、どちらのほうがより多くの人が幸せになるか程度の差でしかないと考える。

ビジネスパーソンである以上、常に成果とその評価にさらされるのは仕方がないことだ。もし役員にまで昇ってしまえば、成果報酬以外の選択肢がなくなることも事実。立場や環境によっていくつかのバリエーションを設定するくらいしか報酬制度には解がないのではないかとも思う。

なお、著者が情けないと指摘している「日本を評価する動きは、いつも海外主導で行われてきた」という現象は、何も経営学に限ったことではない。科学でも芸術でもまったく同じである。そして、今も昔も変わらない。

目次概略

高橋伸夫著『虚妄の成果主義~日本型年功制復活のススメ』の目次概略は以下の通り。

  1. 日本型年功制のどこが悪いというのか
  2. 日本的経営の評価をめぐる右往左往
  3. 人が働く理由を知っていますか?
  4. 未来の持つ力を引き出す
  5. 幼稚な発想からの覚醒を
タイトルとURLをコピーしました