月35,000円の企業研修
以前にも書いた通り、社会人1年目の新入社員研修は10か月もあった。その会社では新卒だけではなく、2年目、3年目と年度ごとの義務教育があり、さらには「年間に受講しなければいけない研修日数」も決まっていた。この研修日数の達成状況が、そのまま上司の評価になるという徹底ぶりだった。当時、世界で最も人材育成・人材開発に投資している会社ではないかと言われていた。もちろん、内部に研修・人材育成の専門組織を持ち、外部の人材開発専門コンサルタントと一緒に育成プログラムを独自につくっていた。
小規模事業者や中小企業といったスモールビジネスにとって人材育成への「投資」をどのように考えるかは、経営者の悩みのひとつだ。社員数がそれほど多くないことから、個々の社員の能力が企業の業績を大きく左右するであろうことは分かっている。とはいえ、目先の利益を優先してしまい、人材育成にかける時間とコストをなかなか工面できない。
研修専門会社が提供する企業向け研修を調べてみると、だいたい1人1日3万円が相場だ。3日なら1人9万円。そもそも大企業と違って、スモールビジネスに飛びぬけて優秀な人材が来るわけではない。経営者としては、ここにどの程度のお金をかけて良いものか迷うのは当然だ。
トーマツのグループ会社
スモールビジネスにおいて、初めてゼロから人材育成を考えたのは、約40名の上場ベンチャー企業の役員だったときだ。当時、会計監査人としてお世話になっていたのが監査法人トーマツだった。そのグループ会社が「中小ベンチャー専門の研修会社」をスタートしたということで、話を伺った。
その会社はトーマツイノベーション株式会社。その後、MBO(マネジメント・バイ・アウト)という手法でトーマツから離れ、2019年4月以降は株式会社ラーニングエージェンシーとして活動している。このとき伺った話は、当時の自分たちには「メリットだらけ」で、即刻契約した。ただ、普通に考えると非常識なビジネスモデルとしか思えず、「いつまで続くんだろうね」というのが素直な感想だった。もちろん今でも大活躍されている。
人材育成のサブスク
トーマツイノベーションで即刻契約したのは、『イノベーションクラブ』という名称の定額制研修サービス。月額35,000円で、研修を受講し放題。要するに今風に言うなら人材育成のサブスクリプション・サービスだ。研修内容は、ビジネス文書の書き方や時間管理といったものから、ISO9000(品質)、ISO27000(情報セキュリテイ)などの管理システム、初めて管理職になる人向けのワークショップまでさまざまな内容がそろっていた。
各研修は2時間~半日程度の集合形式。配布される資料もよくできている。研修場所が当時のオフィスから2駅だったこともあり、サッと受講して帰社することもできる。金額を考えると、毎月2-3人が受講してくれれば元が取れる。少しでも時間があれば予約して受講させた。全員が年間12講座以上は受講したはずだ。
実際に始めてみて分かったのが、これによって社員のモチベーションが随分向上したことだ。実は、当時の社員約40名は、外部のトレーニングを受講した経験がほぼなかった。一部社員からは「会社が自分を育成するために投資してくれている」という感覚があったと言われた。
必要な人材の定義
上記のサブスクの話は、「研修の実行」に関わるひとつの例にすぎない。PDCAでいうならD(実行)部分。本来は、P(計画)として、自分のビジネスに「必要な人材」を定義しないと、どういう育成をするのか決められない。必要な人材は、会社の業種・業務・規模・目標などにより異なるため、一概には言えないが、特にスモールビジネスにおいては、以下の4つくらいが一般的だ。
■柔軟性のある人材
ニーズの多様化、インターネットの普及によるグローバル化などを背景に、従来の仕事の進め方や考え方が通用しなくなっている。変化はこれからも起きるだろう。このことから、環境の変化や今後の社会の動きに対して、スピーディーかつ柔軟性のある対応ができる人材はますます必要とされている。
■専門知識・能力の高い人材
「この分野でなら誰にも負けない」という分野を持つ人材。さらにその分野が、大企業や他社が参入しにくい市場であったり、将来の成長性が高い分野であればなおさらよい。
■自発的に行動できる人材
スモールビジネスは一般的に上意下達ではなく、有機的に社員が活動する。指示や命令を待って行動を起こす、いわゆる「指示待ち」タイプの人材ではなく、自分の頭で考え、自主的に行動を起こすことのできる人材が望ましい。
■コミュニケーション能力の高い人材
「自分の意志を相手に正確に伝えることができる」「相手の話を正確に理解し、もし分からない部分があったら質問する」という基本がしっかりできている人は意外と少ない。従って、この基本がしっかりできている人材は貴重な戦力といえる。また、少人数であることを考えると、人とのコミュニケーションを大切にし、相手のよいところを引き出すことのできる人材が望ましい。
これらのことを踏まえて、主な職種ごとに必要な人材を考えてみると、以下の通りになる。
営業部門の例
競争が激化する中、営業力の強化は最大の関心事だ。会社経営の成否は営業力によって決まるといっても過言ではなく、利益体質への改善、賃金レベルの引き上げ、将来を見据えての先行投資など、すべての積極的な企業活動は営業力の強化による業績の向上が前提となっている。
営業部門において必要とされる人材を一般論で定義すると以下になるだろう。
- 営業活動に必要な情報を素早く収集し、それを分析して活用できる
- いわゆる御用聞きではなく、顧客ニーズをとらえた提案型の営業ができる
- テクニカルな知識を身に付けて、より専門的な営業活動ができる
- 顧客を納得させるプレゼンテーションができる
- 顧客とよい信頼関係をつくることができる
製造・開発部門の例
海外から高品質で価格競争力のある製品が数多く輸入されるご時世。国内だけでなく海外の企業も相手にした、コスト面・品質面での競争が一層激しさを増しており、その結果として、各企業とも新製品・新技術の開発などの革新的な対応が求められている。
製造・開発部門において必要とされる人材を一般論で定義すると以下になるだろう。
- 市場のニーズをくみ取るためのマーケティング能力を有している
- コストダウンと品質向上を達成するため、適切な現状分析やデータ解析ができる
- 優れた開発計画の立案とその管理ができる
- 業務の改善、革新のために積極的な行動ができる
- 高度の専門知識・技術を有し、進取の気性に富んでいる
- 優れた情報技術(IT )力を有している
管理部門の例
スモールビジネスにとっての先輩である国内の中堅・中小企業において、総務、人事、経理などの管理部門に属する社員への専門的な教育は、O J T 、自己啓発並びに社外セミナーに時折参加させる程度というのが実情で、あまり人材育成に力を入れているとはいえない。しかし実は、労働問題や年金問題に関する法制度がどんどん変わってきていることから、専門的に対応できる人材を育成することが急務となっている。
管理部門において必要とされる人材を一般論で定義すると以下になるだろう。
- 担当業務(経理、人事、総務など)に関する専門知識を有している
- 業務の改善・革新をするための仕組みを構築することができる
- 関係各部門との利害関係を上手に調整することができる
人材育成のポイント
必要な人材の定義ができたら、次に「このような人材を育てるために企業は何をすればよいか」についてみていこう。一般的に、スモールビジネスにおける人材育成を行ううえでの環境は、大企業と比較した場合、決して恵まれているとはいえない。現実問題として以下の3点があるからだ。
- 素質のある優良な人材を集めにくい(集まらない)
- 研修体系がしっかりしておらず、O J T に依存せざるを得ない
- 人材開発に割ける予算や時間が不足している
その反面、社員数が少ないため大企業では行いづらい「個々の主体性」を尊重することができる。従って、スモールビジネスではこの点を最大限に生かした人材育成を行う必要がある。具体的には、以下の点に留意して人材育成を進める。
■研修の実施
人材育成を効果的に行うために、研修は必須だ。研修を受講することにより、普段の仕事では習得できない専門的事項を習得できたり、同じ境遇の社員と意見交換をすることにより、スキルアップを図ることが可能になる。
しかしながら、現実にはスモールビジネスでは、研修にはあまり時間もコストもかけることができない。従って、研修はシンプルなもので十分で、むしろO J T や自己啓発のほうに重きを置くのが現実的な選択といえるだろう。
世の中の一般的な研修体系は、以下のように分かれている。
- 階層別研修(役員、管理職、中堅社員、新人など)
- 職掌別研修(営業部門、製造・開発部門、管理部門など)
- 全社員共通の研修(ビジネススキル、IT研修、語学研修など)
冒頭で紹介したラーニングエーエジェンシー(旧トーマツイノベーション)の研修体系は「階層別」で設計されており、その階層別に共通研修が盛り込んであると考えていいだろう。シンプルな研修で十分だと割り切り、こういったサブスク型の研修の導入を検討するのも一考だ。
現時点では月額料金は45,000円~らしい。内容もかなり充実していることだろう。公開されている「研修の構成」や「導入事例」から自社に近いものや、興味のあるものを洗い出し、問い合わせてみることをお勧めする。
■O J Tの実施
人数の少ないスモールビジネスでは、人材育成を行ううえでO J T の果たす役割は大きい。O J T とは、管理職や先輩が日常業務を通じて指導育成を行うことだ。O J T を上手に行うことにより社員の成長が期待できるが、それだけではなく、OJTを通じて教える側も成長するという効果も期待できる。
教える側は、社員の状況(仕事環境、仕事ぶり、性格など)から現在のレベルを正確に把握し、育って欲しいレベル(目標レベル)とのギャップを認識し、そのギャップを埋めるためにはどうすればよいかについて熟慮しなければならない。それがしっかりできていれば、おのずとO J T を通じて何を行えばよいかについて分かってくるはず。つまり、日常の接触を十分にしていれば、「何を教えればよいか」ということが自然とみえてくるのだ。このことから、教える側にはコミュニケーション能力が必須といえる。
ときどき、教える側が「年月が経てば自動的に育っていくもの」とか、「やる気がないので仕事を任せられない」と思い込んでいる場合がある。これではOJTがうまくいかない。どんな人間も自主性や向上意欲は兼ね備えており、興味や関心を起こせば全力を尽くして業務を行うという前提で実施しないと回らないのがOJTだ。
また、1ー2回指導したくらいで業務に習熟する人間というのはまれな存在であり、何度も何度も繰り返していくうちに業務に習熟していくものだいうことも念頭においてO J T を行わなければならない。
■人事制度の整備
人事制度を整備することは、人材育成を側面から支えていくうえで非常に重要だ。「人事評価を適正に行うこと」は、人材育成を行ううえで大切な「社員のやる気」を高めるために非常に有効な手段といえる。人事評価が適正に行われず、社員がやる気をなくしてしまい、素質のある人材が去っていく例は枚挙にいとまがない。
人事制度については、2021年7月24日公開の別コラム『人材を”人財”にする人事制度を考える』で詳細を書いているので、ここでは割愛する。
以上を踏まえて、職種ごとの人材育成ポイントについてみると以下の通りになる。
営業部門の例
- これまでの自社の新規顧客開拓の成功事例や失敗事例を営業社員同士で披露させ、今後の営業活動に役立つポイントを共有化する
- 中堅営業社員を中心としてプロジェクトチームを編成し、自社の提案営業の手法を構築する
- 自社の扱う商品に関する専門知識や商談技術について、公的資格取得の奨励や、どの程度身に付いているかを図るための客観基準を設定し、それに基づき社内資格認定制度を実施する
- プレゼンテーション技術に関して、ベテランの営業社員にノウハウを披露させ、それを若手営業社員にも共有させるようにする
- プレゼンテーション資料の作成を支援するソフトウェアの使い方についての社内講習会を行う
製造・開発部門の例
- コストダウンや品質向上といった自社の取り組みが、実際にどの程度の成果を生み出しているのかを調査し、問題点があれば関係部署、関連会社と解決策を議論する
- 同業者の工場見学や合同での勉強会を実施し、現状の問題点などについての意見交換を行う
- 公的資格取得の奨励や、公的資格のない分野では社内で独自の基準を設定し、社内技能資格認定制度として実施する
- 最新技術や特許に関する知識の習得のために、社内勉強会を実施する
- 今後の商品の共同開発を念頭において、関連企業の開発担当者との交流会を定期的に行う
- 市場のニーズをしっかりととらえた研究開発を行うため、マーケティング研修会を実施する
管理部門の例
- 各種通信講座や夜間講座の中から、会社としての推薦講座を選定し、その講座の受講費用援助制度を導入する
- 公的資格の取得を奨励し、資格取得者には特別手当などの優遇制度を導入する
- 社外の専門家もしくは社内のベテラン社員を講師として、時間外および休日に自由参加型の定期的な社内勉強会を開催する
- 各社員に担当業務に関する工夫・改善目標を設定させ、定期的に管理部門全体で成果発表会を行う
ここまでスモールビジネスにとって必要な人材の育成のポイントについて述べてきたが、最も重要なことを最後に述べる。人材育成で一番大切なことは、経営者自らが先頭に立ってそれを進めていくことだ。
経営者は、社員一人ひとりと定期的な話し合いの場を持ったり、重要な集合研修に参加することにより、自らの考え方を社員に示していく必要がある。これにより、経営者の意気込みが社員全員に伝わり、人材育成を行ううえで大切な「社員のやる気」向上へとつながるのだ。