ネットワーク科学の本
この世界を、ネットワーク科学の視点から眺めたらどうなるだろうか。『複雑な世界、 単純な法則』は、そんな内容の本だ。著者のマーク・ブキャナン氏は物理学の博士号を持つサイエンスライター。専門は、カオス理論と非線形力学。
多数の機能を持つ脳の仕組み、巨大分子・タンパク質の構造、言語の文法、経済活動、生態系の食物網、そしてインターネット等々、私たちを取り巻いているものは、すべて途方もなく複雑に見える。
ところが1998年、ダンカン・ワッツとスティーブン・ストロガッツという2人の数学者がネイチャー誌に発表した衝撃的な論文によって、解釈がガラリと変わった。複雑そうに見えるものも、すべてスモールワールドと呼ばれる構造の特徴をもっており、規則的なネットワークに極めてわずかな任意のリンクを加えることで、たちまち隔たり次数が減少するという不思議な性質を持つことが示されたのだ。
この発表がきっかけで、様々な科学分野で同様の研究が進められるようになった。スモールワールドの研究はまだ発展途上にある。将来、さらに多くの複雑なものが、この単純な法則に支配されていることが明らかになろう。
地球上の人口は2022年に80億人に達したらしいが、たった6人たどるだけで誰とでもつながる…そんな話だ。
スモールワールド
1960年代、スタンレー・ミルグラムという名のアメリカの心理学者は、人々をコミュニティに結びつけている複雑な人間関係の構図を捉えようとしていた。そのためにミルグラムは、カンザス州とネブラスカ州の住民から何人かをランダムに選び出して 160通の手紙を送りつけ、その手紙をボストンにいる彼の友人の株仲買人に転送してほしいと依頼した。ただし、友人の住所は知らせなかった。手紙を転送するにあたっては、それぞれの人の個人的な知り合いで、その株仲買人と社会的に「近い」と思われる人にだけ送るように頼んだ。
結果は、なんと手紙の大半がボストンの友人のもとに届いたのである。届いた手紙のほとんどすべてが、仲買人の友人3人のうちの誰かが投函したものだった。それ以上に驚かされるのは、手紙が着いた速さだった。手紙の多くは、6回前後の投函で着いたのである。ミルグラムの発見は、「6次の隔たり」として人々に知られるようになった。どんな有名俳優とでも、6人の関係する人を通せば、結びついてしまうということになる。
1998年の春、ロンドンにある「ネイチャー」誌の編集室は、通常とはやや性格を異にする草稿を受け取った。ニューヨーク州のコーネル大学に籍をおく2人の数学者、ダンカン・ワッツとスティーブン・ストロガッツから送ってきた「 [スモールワールド・ネットワーク] における集団力学」というタイトルがつけられたわずか3ページの論考だった。
数式が皆無に近く、数値が出てくるのは、過去50年間に俳優のだれとだれが同じ映画で共演したかなど、一風変わったいくつかのテーマについてデータを提示している表だけだった。しかし、そこには奇妙な円形の図形もいくつか含まれていて、その図形は円環状に並べられた多数の点が互いに曲線で結ばれ、装飾用の壁紙やレース地を思わせるパターンに似ていた。この論考は、すぐに編集部の注目を引くところとなり、数カ月後に掲載された。
この論考のタイトルは「Collective Dynamics of ‘Small World’ Networks」だ。
ワッツとストロガッツは、古くからの謎「狭い世界」(スモールワールド) の不思議な現象とでも呼べるものを、数学的にどう説明するかを明らかにしたのである。ワッツとストロガッツが提示した答えによると、我々が暮らしている社会のネットワークは、これまで予想されていなかった特別の構造になっていて、それが実際に世界を狭いものにしているという。
この2人の数学者が偶然に行きあたった点と点を結ぶグラフは、規則的なものでもランダムなものでもない、カオスと秩序とが拮抗して混在する独特のパターンのものになっていた。それぞれの点が直近の数個の点とのみつながっている、完全に規則的な円筒状のネットワークがある。その中の2つの点をランダムに選んで、両者を結ぶ新たなリンクを1本加え、さらに別の2点を選び、同じことを繰り返したのである。これにより、規則性とランダム性が混在する状態ができた。
これを基に、ワッツとストロガッツは、コンピュータを利用して、規則的なネットワークからスタートし、それから少しずつランダムな配線を加えていった。やがてコンピュータは、興味をそそる意外な事実を明らかにした。円周に点が 1000あって、それぞれの点は直近の10の点とつながっているスタートとなる規則的なネットワークに、ランダムなリンクを加えて実験を行った結果、不規則性が加わっても、ネットワークのクラスター化にはほとんど変化が起きないが、隔たり次数にはとてつもない影響をおよぼすことに気づいた。
ランダム・リンクがまったくない場合、隔たり次数は約50だったが、ランダム・リンクを数本投入したとたん、約7へと急激に下がったのである。何かエラーがあったのではないかと、プログラムをチェックし、様々な大きさのグラフで繰り返し試したが、結果は同じだった。スモールワールドを作りだすには、常にごく少数のランダム・リンクがあれば十分であることが判明した。
完全なランダム・ネットワークでは、スモールワールドの特性はもっているが、クラスター化指数は極端に低くなる。これでは、実社会のネットワークに見られる現実と大きく異なる。そこで、世界の全人口、60億の人からなる社会で、直近の50人の隣人とだけつながっている規則的なネットワークだったとしたら、このときの隔たり次数は 6000万になる。ワッツとストロガッツの計算によれば、新たに入れたランダム・リンクの割合が1万本につき2本でも、隔たり次数は 6000万から約8に下がるのである。1万本につき3本の割合なら、5まで下がる。しかし、この程度のランダム・リンク数であれば、社会のネットワークの構造を作りだしているクラスター化には目立った影響は生じない。
1998年6月4日発行のネイチャー誌に掲載されたワッツとストロガッツの論文は、不意を襲うように科学界に衝撃を与えた。この論文が口火となり、科学の多くの分野でさらなる研究が次々とおこなわれ、人体を作っているタンパク質の重要な構造や生態系の食物網、さらに、われわれが使っている言語の文法や構造の背後にも、ワッツとストロガッツが見いだしたスモールワールドの幾何図形的配列の1類型があることがわかってきた。スモール・ワールドは、インターネットの構造上の秘密を解く鍵でもある。見かけの単純さにもかかわらず、スモールワールドというのは、あらゆる面において計りしれない重要性をもつ、新たな幾何学的・構造的な考え方なのである。
ネットワークの特性を応用
「6次の隔たり」は有名な話なので知っているかもしれない。テレビのバラエティ番組でも実験をやっていたようだ。私たちにはひとり平均44人の知り合いがいるとされている。ここから「知り合いの知り合いの知り合い…」として6人分の知り合いを掛け合わせると、つながる可能性があるのは44人の6乗となる。結果は72憶5600万以上と計算できるので、理論上は、ほぼ地球上の2021年の人口78億人の誰とでもつながる可能性があるという話だ。
『複雑な世界、 単純な法則』で述べられているのは、地球上の人類が6段階で全てつながっているばかりではない。脳の中の何10という機能部位はニューロンを経由してたったの約3段階でつながっている。世界に何十億もあるWebページは、リンクをたどれば約19段階程度でつながっている。もともと「非線形力学」を面白いと思っていたので、この複雑ネットワークの話は、かなり楽しめた。
実感としてはどうだろうか。見知らぬ誰かと連絡をとりたいと思ったとき、身近な知り合いの誰かにその人を知っている人がいないかどうか尋ね、その人がまた別の人に同じ質問をして紹介を頼めば、目的とする人のところまで到着する過程は6人程度の橋渡しで可能だろうか。普段、私たちが何気なく使っている「世の中って狭いよね」を、科学で証明しようとしたのが、スモールワールドの考えであろう。
この本は、サイエンスライターが書いたものであるため、「複雑ネットワーク」という新しい考え方への入口としては良いと思う。数学の話なのに数式が一切出てこないので、ハードルも低いだろう。それにしても、かの寺田寅彦も研究していたという「非線形力学」分野は、カオス、フラクタル、ソリトンなど、次から次へと新しい概念が出てくるものだ。
私たちの周りにはさまざまなネットワークがある。それらネットワークは構造が似ているゆえに、同じような特質をもっている。この特質を知り、これをコントロールできれば、生態系の保護から経済社会における貧富の格差の問題まで、非常に多様な問題の解決策に応用できる。この本を読むと、少しだけ世界の見方が変わるはずだ。
目次概略
マーク・ブキャナン著/阪本芳久訳『複雑な世界、単純な法則ーネットワーク科学の最前線』の目次概略は以下の通り。
- 「奇妙な縁」はそれほど奇妙ではない
- ただの知り合いが世間を狭くする
- スモールワールドはいたるところにある
- 脳がうまく働く理由
- インターネットがしたがう法則
- 発性が規則性を生みだす
- 金持ちほどますます豊かに
- ネットワーク科学の実用的側面
- 生態系をネットワークとして考える
- 物理学で「流行」の謎を解く
- エイズの流行とスモールワールド
- 経済活動の避けられない法則性
- 偶然の一致を越えて