日本型経営を見直す
今回は、あまり見直す機会のない「日本型経営」とその未来を論じた本『会社は誰のものか』を取り上げたい。サブタイトルが『お金よりも人間。個人よりチーム。会社の未来は、ここにある。』となっており、ここに本質が書いてある。
著者は岩井克人氏。東京大学経済学部の元教授。東京大学経済学研究科長・経済学部長を務めたこともある。『貨幣論』でサントリー学芸賞、『会社はこれからどうなるのか』にて小林秀雄賞を受賞した。この本は、『会社はこれからどうなるのか』の続編として書かれている。
前半は、会社とはなにかという基本的な問いから、会社のあり方を説く。後半は著名な経営者の小林陽太郎氏やコピーーライター糸井重里氏との対談になっている。
岩井氏は、時代が「産業資本主義」から「ポスト産業資本主義」の時代へと移行しつつあるという。産業資本主義では、工場や生産設備への投資が主要な要素を占め、おカネが重要な役割を果たしてきた。しかし、技術や経営などの点でほかよりも違いがあることが求められるポスト産業資本主義では、おカネよりもヒトが中心となる。そういう内容だ。
重化学工業の後期産業資本主義で力を発揮してきた「日本型経営」も、その歴史的役割を終えようとしている。しかし、アメリカの経営が株主主権論であるのに対し、日本型経営は会社の人的資産を重視する経営理念であったことから、ポスト産業資本主義にあっても、その伝統と連続性を維持できるということは、わが国にとって有利だといえよう。
アメリカがモノとして会社を株主が所有することを強調するのに対し、日本型経営は会社をヒト(法人)が会社資産を所有するという側面を重視する。
ポスト産業資本主義
20世紀後半までの資本主義は、産業資本主義とよばれていた。産業資本主義とは、機械制工場を利益の源泉とする資本主義のことである。経済学での通説では、このような機械制工場による大量生産を可能にした産業革命こそが、産業資本主義の生みの親だと考えられている。
しかし、これでは正しさは半分だけである。機械制工場自体が利益を生み出しているように見えるのは、錯覚にすぎない。同時に、労働者の賃金を抑える仕組みが、経済のどこかに備わっていなければならない。
産業革命が起きた18世紀後半のイギリス、それを引き継いだ、アメリカ、ドイツ、日本、韓国、そしてほかのアジア諸国では、産業資本主義が隆盛をきわめたとき、どの国でも、農村に人が余っていた (アメリカの場合は、移民が安い労働力を提供した)。いずれの場合も、安い賃金で働く人が大勢いたのである。マルクスの言葉を借りれば、産業予備軍の存在である。産業資本主義の生みの親は、産業革命による労働生産性の向上と産業予備軍による労働賃金の抑制である。
ところが、20世紀の後半に、資本主義に大変化が起きた。もともと農村にはあまり人が余っておらず、安い労働力はもっぱら海外からの移民に頼っていたアメリカに起こった。そして、次に西ヨーロッパ、日本、そして最近では韓国も同じような変化を経験しつつある。
産業資本主義の時代がその終局を迎え始めたのである。産業資本主義の発展により、農村にも人が余らなくなり、安い賃金で労働者を雇うことができなくなってしまった。もはや、収入と費用の差である利益を、安い労賃により確保することが難しくなってきた。「ポスト産業資本主義」の時代がはじまったのである。
堺屋太一の「知価社会」、増田祐司の「高度情報化社会」、フリッツ・マッハルプの「知識社会」、ダニエル・ベルの「脱工業化社会」、アルビン・トフラーの「第三の波」は、みな資本主義の同じ変化を言い表そうとしたものである。この産業資本主義からポスト産業資本主義への大転換により、つねに新しい技術、新しい製品、新しい市場、新しい経営手法の開拓といった、新しさを追求し続けなければならない社会に私たちは生きることになった。
それとともに、「日本的経営」はその歴史的使命を終えつつある。日本的経営とは、ドイツの企業体制とならんで、組織特殊的人的資産 (経済学の用語で、ひとつの組織にのみ有効な知識や能力を意味する)の育成のために、たいへん有効にはたらいてきた経営システムである。とりわけ重要だったのは、終身雇用制と年功序列制と会社内組合制である。
産業資本主義の時代には、人手は安く雇えたので、機械制工場を持っていれば、ほぼ自動的に利益を得ることができた。その機械設備や工場施設はすべてモノであるから、おカネで買うことができた。すなわち、産業資本主義の時代とは、おカネが経済を支配した時代であるといえるだろう。
しかし、ポスト産業資本主義においては、利益の究極的な源泉は、ほかと違った製品、ほかと違った技術、ほかと違った市場、ほかと違った経営手法を開発していく知識や能力を頭の中に蓄えたヒトになった。
だが、そのようなヒトはモノではないから、おカネだけで手に入れることはできない。したがって、ポスト産業資本主義とは、おカネを持っているだけでは、利益が手に入らなくなった時代、おカネの力が相対的に弱くなってきた時代だといえる。
では、このおカネの力が相対的に弱まった時代に入ったという事実は、会社という仕組みにおいては、どのような意味を持っているのか? その答えは簡単である。
会社に対する究極的なおカネの供給者は株主である。そのために、これまでは株主が会社の支配者の地位を保っていた。だが、もはや機械制工場を持っているだけでは、利益を生みだすことはできなくなった。ポスト産業資本主義の時代とは、おカネの供給者としての株主が、違いの創造者としてのヒトに、会社の支配者としての地位を譲り渡さなければならなくなった時代だといえるのである。現代とは、株主主権論が、理論上だけでなく実践上も、その正当性を失いつつある時代なのだ。
法人である会社は、二重の所有関係の組み合わせによって成立している組織だといえる。すなわち、会社をモノとして所有している株主と、会社がヒト(法人)として会社資産を所有しているという二重性、いわば二階建て構造を持っているということである。二階部分では、株主が会社をモノとして所有し、一階部分では、ヒトとし会社資産を所有している。
一昔前、アメリカ型の会社がよいのか日本型の会社がよいのか、あるいは会社は株主のものでしかないという株主主権論はグローバル標準なのか、株主の役割を軽視する日本型経営は資本主義ではないのではないか、といった大論争があった。会社は株主のものでしかないという株主主権論は、二階の部分のみしか見ていないのに対し、一階の部分を重視するのが日本型経営だといえる。
要するに、アメリカ的な会社のあり方も、日本的な会社のあり方も、会社というものがそもそも持っている二階建て構造の、二階部分と一階部分のどちらを強調するのかということの違いでしかない。
20世紀最大の経済学者のひとりとして、ケインズやハイエクとならんで、シュンペーターの名前を挙げることに反対する人は少ないであろう。マルクスが死んだ1883年にオーストリアに生まれたシュンペーターは、25歳のとき「理論経済学の本質と主要内容」という大論文を書いて学界にデビューし、29歳のときにその論文を批判的に発展させた『経済発展の理論』という本を出版した。
その後、オーストリアの大蔵大臣、銀行の頭取にもなったが、49歳でアメリカのハーバード大学に移籍し、そこで一生を終えた。数多くの本や論文を出したが、生涯『経済発展の理論』を超える仕事はできなかった。
それは『経済発展の理論』が、時代をあまりに先駆けた仕事だったことが大きかったと思う。この本が出版された1912年は、まだアメリカやドイツや日本が重化学工業を中心とした後期産業資本主義の拡大に躍起になっていた時代だった。シュンペーターが提示した資本主義論は、時代を一世紀近くも先取りした、まさにポスト産業資本主義論だったのである。
「創造的破壊」という有名な言葉で知られるシュンペーターの理論は、資本主義は利潤を再投資していくことによって発展していくが、その利潤は、新技術や新製品や新市場や新経営方法の導入、すなわち「イノベーション」によって、既成の価格秩序を破壊することしか創造されえないとする。
ポスト産業資本主義の時代とは、まさに意識的な違いからしか利益が生まれない時代であるということから、優れた個人の力がものをいう時代であると同時に、優れた組織の力がものをいう時代でもある。ひとりのヒトのアイデアを他のヒトが改良し続けていく。複数のヒトの小さなアイデアを組み合わせて、大きいアイデアに仕立てていくという複数のヒトによって構成された組織が必要になってくる。
日本的経営とは、後期産業資本主義において、高価な機械制工場を効率的に運用していくことを目的として、従業員や技術者や経営者が組織特殊的な人的資産を蓄積していくことを促す仕組みとして生まれた。
しかし、そこで必要とされる知識や能力は、違いのある技術や製品をいかに作り出していくかを目的とするポスト産業資本主義的な知識や能力とは、多くの場合、性質を異にしている。その意味で、日本的経営の歴史的な使命は終わりつつある。
幸いにも、戦後における日本型の会社は、株主主権論というイデオロギーから無縁だった。それゆえに、株主の利益には必ずしも縛られずに、組織の中で複数の個人がお互いの知識や能力を組み合わせていくことを促す、さまざまな仕組みを考案してきた。おカネよりもヒト、おカネよりも組織を重視するという伝統を築き上げてきたのである。
おカネの支配力が大幅に低下していくポスト産業資本主義時代にむけて、もし日本型の会社が何らかの歴史的な連続性を持つことができるとしたら、使命を終えつつある日本型経営の伝統はけっして無駄なものではない。
会社にとって人こそ資本
冒頭に書いた通り、この本のサブタイトル『おカネよりも人間。個人よりもチーム。会社の未来は、ここにある。』が要旨を表している。
実はこの本が書かれた時代は、村上ファンドやホリエモンのライブドアによって、まさに「会社はだれのものか」が問われていた。そんな中で、岩井氏が主張したのは「これからは、おカネの没落時代に入る」ということだ。その当時、「株主」とか「カネ」ばかりにスポットライトが当たりすぎ、辟易していたので、今後を考えるうえでの良い刺激になった本だった。
前述の通り、岩井氏は「会社」について2階建て構造で説明する。2階部分では株主が会社をモノとして所有する。1階部分では株主に所有されている会社がヒトとして会社資産を所有する。そして「会社は株主のもの」という米国型の株主主権論は、2階部分を強調したものと指摘する。
このように、資本主義の変遷や会社という法人について、非常に分かりやすく説明しており、今後のさまざまな判断に有益なヒントを与えてくれることは間違いない。
目次概略
岩井克人著『会社はだれのものか~お金よりも人間。個人よりチーム。会社の未来は、ここにある。』の目次概略は以下の通り。
第1部
- 会社はだれのものか
- ライブドアとフジテレビ
- 会社とは何か
- 会社の二階建て構造
- コーポレート・ガバナンスとは何か
- 会社経営者の義務
- 資本主義の倫理性とエンロン事件
- 産業資本主義とは何か
- ポスト産業資本主義とは何か
- 日本的経営の歴史的使命
- ポスト産業資本主義におけるおカネの没落
- 産業資本主義時代における会社買収
- ポスト産業資本主義時代における会社買収
- ポスト産業資本主義時代における金融の役割
- アメリカの金融と日本の金融
- ポスト産業資本主義における個人と組織
- CSRとは何か
- 会社の存在意義と社会的責任
第2部
- 新・日本型経営が見えてきた(小林陽太郎氏との対話)
- 次世代産業は日本がリードする(原丈人氏との対話)
- 会社は、驚きに満ちている(糸井重里氏との対話)