世界を変えた女性
今回は経営者ではなく、番外編として 国連高等弁務官の緒方貞子氏について書いてみたい。もしメディアで「世界を変えた女性」という特集があれば、ほぼ確実に緒方氏は入っているだろう。真の国際人として世界が認める数少ない日本人だとも言われる。
緒方貞子氏のことを取り上げた書籍は10冊以上ある。その中で今回は『私の仕事~国連難民高等弁務官の10年と平和の構築』を選んでみた。この本は国連高等弁務官時代の著者本人の貴重な日記を中心に、エッセイ、インタビューなどをまとめたものだ。
緒方氏は上智大学の教授だったのだが、1991年、63歳で国連の高等弁務官に選ばれた。この年は湾岸戦争が起き、ソ連が崩壊して東西冷戦構造に終止符が打たれるという大変な年だった。もともと国連難民高等弁務官は、共産圏から逃げ出してくる人たちの救済を目的としていたから、本来なら冷戦終結でその任務は終わってもいいはずだった。だが、湾岸戦争の余波で、4日間で180万人ものクルド難民がイラク国境から流出する事態が起きた。続いてサラエボ紛争でも大量の難民が発生。アフリカでも夥しい数の難民が飢餓状態にさらされた。
2000年、緒方氏は国連高等弁務官の職を退き、回顧録を書く日々だったが、2001年9月11日ニューヨークにある部屋から貿易センタービルが倒壊する様を目撃し、深い悲しみと恐怖、不安に襲われることになる。その後、アフガニスタン支援総理特別代表となり、新たな立場から難民問題と取り組んだ。2003年から2013年までは独立行政法人国際協力機構(JICA)理事長を務めた。
緒方氏は2019年10月に93歳で亡くなった。葬儀には、親交のあった上皇后さまも弔問に訪れた。
キーワードは『連帯』
1990年10月、上智大学の外国語学部長をしていた著者は、国連人権委員会の特別報告者としてミャンマーを訪れ、人権侵害の調査に当たっていた。それ以前にも、国連総会に出席、第三委員会で社会・人権・文化を担当、1976年から3年間、公使としてニューヨークの日本政府代表部に赴任するなど、国連とはなにかと関係が深かったが、帰国後、日本政府から、国連難民高等弁務官が辞任したので、その後任候補にどうかという打診を受け驚かされた。
かつて子育てに忙しいことを理由に、国連総会行きを断ったこともあったが、すでに2人の子どもは自立し、既に親も看取って、家庭での務めは一段落していたので了承した。世界中から推挙された候補者は15人ほどいたが、師走も押し迫ってペレス・デクレヤル国連事務総長から直接電話があり、1月からお願いしたいという。しかし、大学の仕事の整理もあり、結局1991年2月17日ばたばたと単身ジュネーブへ発った。
その半年前、イラクのクウェート侵攻があり、ぺルシャ湾岸が緊張状態に陥っていた。著者の就任と前後して、東西ドイツが統一(1990年10月)、ユーゴスラビアが分裂(1991年6月)、ソビエト連邦が崩壊(1991年12月)などの大事件があり、世界情勢は大きく変化した。東西の冷戦が終結した。
1951年設立された国連難民高等弁務官(UNHCR)事務所は、主に東欧の共産主義体制を逃れてきた難民を援助してきた。冷戦終結により、難民問題の解決は早いと誰もが期待したが、現実はその反対だった。難民の数は世界中で2200万人も達していた。難民救済の仕事は、幅を広げ、複雑で、より困難なものになっていく運命にあった。
赴任間もなく、イラクでフセイン政権の迫害を受けたクルド難民がイランやトルコ国境地域に流出し始めたという報せが入った。さっそく現地に飛んだが、北イラクの山沿いの道にあふれる夥しい数の難民を見て息をのんだ。
イランへの難民流入は130万人にのぼり、トルコの国境山岳地帯には45万人が流出していた。イランもこの難民は手に負えなくなって著者たちに支援を求めてきた経緯があり、トルコは国内にクルド人反政府勢力との問題を抱えていることから、クルド難民を受け入れることを嫌った。
難民とは、政治的、人種的、信条的迫害や紛争のために祖国を逃れて国境を越え他国に庇護を求める人たちであると、難民条約に定められている。したがって、イラクから人々が国境を越えて逃げてくるまでは、著者たちはノータッチなのである。
状況を見て多国籍軍は、トルコ国境のイラク側に安全地帯をつくり、難民キャンプを設営することを考えた。しかし国内で難民保護をすることは、UNHCRの大原則に反するわけで、内部で皆が大反対した。
だが、一番大事なことは、苦しんでいる人間を守り、彼らの苦しみを和らげることである。「国境」というものが、どれほど意味があるのだろうかと著者も迷った。結局、山を下って自国内の安全地帯にできたキャンプに帰るクルド難民の援助を始めた。
この方式は、ソマリアでも実施され、難民保護の態様を変える大きな決断であったとされている。そのときは、それほどには感じていなかったが。
1991年10月、ユーゴスラビア政府の要請で人道援助の主要機関となったUNHCRは、翌年7月には、首都サラエボの市民への物資援助を空輸によって行うことを決めた。空輸手段は初めてであり、停戦なしの状態の戦闘の真っ只中へ乗り込んでの援助活動は、従来のUNHCRの常識では考えられないことだった。
空輸開始後、著者もすぐにサラエボに向かった。副高等弁務官が「無理をしないでくれ」と心配し、現地にも電話をかけてきて繰り返した。その後も度々サラエボへ輸送機に乗って行ったが、いつ砲撃を受けてもおかしくないような緊迫した状況だった。
身長150センチの著者だが、15キロもある防弾チョッキを着せられた。大袈裟なことではない。著者が降りた10分後、運転手が流れ弾を浴びて大けがを負ってしまったこともあった。
著者は、初の学者出身の難民高等弁務官である。外交関係の書物で埋め尽くされた外交官の父の書棚を見て育ち、成人しても外交関係の研究に励んだ。しかし、高等弁務官になってからは、徹底して現場主義になった。現場から来るインパクトは強烈で、現場からものを考えないと問題の解決には向かわないと強く感じるようになったからである。
著者の下には5000人の職員がおり、著者の決断を待っている。悩み続けるハムレットではだめで、決断するときは一種の度胸だ。自分自身の目で現場をよく見、あるいは現場に派遣した職員の話をよく聞いていると、こう決定するしかないという決断が湧きあがってくる。著者の決断に5000人がよくついてきてくれたと思う。危険に満ちた厳しい自然環境の難民キャンプで、任務を果たすことは並み大抵のことではできない。
著者が心がけているのは、現場事務所の裁量を増やすことである。任された裁量の大きさが仕事への動機づけになる。職員のなかには、外交官気取りで首都の事務所にどっかりと腰をおろしているだけの者もいるが、そういう姿勢をたたき直してきた。若い職員には必ず現場に出てもらい、ジュネーブにずっといたい、という希望は基本的に聞き入れられないことにした。
日本では、コンセンサスは自然に形成されると考えられがちだが、強力なリーダーシップによって形になる。日本の教育は、平均点がきわめて高い人材群をつくり出すが、そこに重きを置きすぎていて、リーダーシップの育成には不向きだと感じる。
国際社会で、決まったことを実施する力において群を抜く日本が、なかなか主導権を握れず、何となくもたもたした国だと見られるのはこのあたりに原因があるのだと思う。
21年前に著者が日本政府の国連代表部公使として初めて外交の世界に接したころと比べて、国際社会で仕事をしている日本の外交官や国際機関職員は積極的になってきたと感じる。はっきりと意見を言わずにニコニコしているだけの日本外交官は、いまや見かけなくなった。
しかし、決断が遅いという傾向は、いまも変わらないないように見える。国際会議などで日本の外交官は、他国がどうするかを調べるのが先、という訓練を受けているのだろう。
日本には人道大国になってほしい。キーワードは、「ソリダリティー(連帯)」だと思う。遠い国の人々に対し連帯感が持てるかどうかが鍵となる。享楽型の若者が増えているのは、日本だけでなく、世界的傾向である。国内にも連帯を感じる対象を失っているかに見受けられる。そうした感覚が、政府の姿勢にも必ず反映する。
日本の難民問題に対する貢献はけっして小さくはない。UNHCRに対する政府の拠出金も非常に大きい。民間人からの寄付もけっして少なくない。ルワンダの難民救済への民間からの支援は、世界でトップといわれている。
問題は、このような動きが国内で大きなうねりにならないことである。それには、会議などイベントがあるときには盛んに報道するが、終わるとそれきりになりがちな、日本のメディアの報道姿勢にも問題がある。
苦しむ人々に思いを寄せ
最初の素直な感想は「こんなに多忙なのか」ということだ。そして、自分の目の前に立ちはだかる問題に挑む姿勢からは、緒方氏の揺るぎない「人道主義」と、決断に際しての徹底した「現場主義」がうかがえる。この本からは多くの教訓を学ぶことが出来るだろう。
外交官のお嬢さん育ちで、研究に明け暮れる大学の先生だった著者が、60歳を過ぎて、どうして弾の飛び交う難民キャンプの前線に立つ現場主義になれたのか不思議だと思う。本人が言っているように、問題を解決しようとする意思と、そのために最適の方法を採るという姿勢に源があったのだろうか。
最終章「世界へ出ていく若者たちへ」は、素晴らしいメッセージが多い。ぜひ読んでみてほしい。
なお、緒方貞子氏が国連高等弁務官の職を退いて20年以上になるが、今でも「日本人初の国連難民高等弁務官 緒方貞子さん」と題したページが設置されている。また、国連難民高等弁務官事務所の活動を支える日本の公式支援窓口、特定非営利活動法人 国連UNHCR協会には緒方貞子氏の挨拶文が今でも掲載されている。最後にこの挨拶文の一節を紹介する。
遠い国の出来事であっても、今もどこかで苦しんでいる人々に思いを寄せ、地球に共に生きる人間として、支え合おうとする連帯感が必要です。2011年の東日本大震災の際には、世界各地の国や人々が日本に温かいご支援の手を差し伸べてくださいました。
引用: 国連UNHCR協会 「第8代国連難民高等弁務官 緒方貞子」
苦難にある人々をお互い助け合おうという機運が今まで以上に高まっているように日々感じております。
目次概略
緒方貞子著『私の仕事~国連難民高等弁務官の10年と平和の構築』の目次概略は以下の通り。
- ジュネーブ忙中日記
- 国連難民高等弁務官の10年
- 難民援助の仕事を語る
- 外交演説・講演ー平和の構築へ
- 世界へ出ていく若者たちへ