1兆9000億円企業を創業
日本電産(Nidec)の 永守重信会長といえば、その経営能力の高さから、社長だった時代には「社長交代が会社の最大のリスク」と言われた人物だ。精密小型モーターで世界に知られる日本電産の2022年3月期決算によれば、連結売上高:1兆9182億円、営業利益:1703億円である。従業員数は11万4千人を超える。このコラム執筆時点での時価総額(企業価値)は5兆円を超えている。
2014年には、日本経済新聞社が実施した「平成の名経営者ランキング」において第1位、日経BP社『日経ビジネス』誌の「社長が選ぶベスト社長」ランキングにおいて第1位を獲得。オンライン書店でざっと検索すると、永守氏の著作や共著のほか、永守氏を取り上げた書籍が20冊もある。
今回はこのうち、日本経済新聞社編『日本電産 永守イズムの挑戦』を取り上げたい。実際の企業再建ドキュメントや2004年に世界経営者会議で永守会長(当時は社長)が講演した内容、インタビューなどをもとに編集したものだ。
1兆9000億円企業を創業した永守重信氏は型破りな経営者である。ある意味で松下幸之助流の「経営の神様」を彷彿させる。1973年、28歳で独立し、日本電産を設立した。創業メンバー4人。手元資金は、以前勤めていたティアックの上場など株式投資で増やしてきたものを集めて2000万円ほど。
「夢は大きく」が自分の人生だと語る。子供の頃から、何でも1位でないと気がすまない気性の人でもあった。なお、この本の最後にあるインタビューでは「売上高10兆円を目指す」と語っている。調べてみると、インタビュー時点での日本電産の連結売上高は4800億円ほどなので、いかに大きな夢を持っているかがよくわかる。
事業拡大には M&A戦略を駆使する。2003年に、当時の東京三菱銀行から請われ、実質的に債務超過状態にあった三協精機製作所に資本参加した。これが日本電産の23番目のM&Aだった。重病の企業を買収して、短期間で黒字化する永守流の経営術には、コストダウン中心の猛烈さと合理性とが共存している。
「3Q6S」の信条
1944年、京都府 (現向日市物集女町) に小作農の6人兄妹弟の末っ子として生まれた永守重信は、生い立ちからして他人とは違っていた。人生観で大きな影響を受けたという母親の口癖は、「人の2倍働いて成功しないことはない」「絶対に楽して儲けたらあかん」だった。この哲学で働き続けた母は、次々と田畑を買い、地元で有数の資産家になった。
永守が勉強できる場所は学校だけだった。「学校から帰ってきたら、すぐに牛の草を刈るなど用事がいっぱい待っており、夜も勉強していたら電気代がもったいないといって兄貴が電気を切っていた」と子供の頃を回想する。「1番以外はビリと同じ」と考え、何でも1番を目指した。いまでも、飛行機に乗る時も、新幹線に乗る時も、必ず座席番号1番に座っている。
■28歳で独立
東京の職業訓練大学校(今の職業能力開発総合大学校)の電気科に入学し、「カマボコ」(いつも机にかじりついているので)と呼ばれるほど必死に勉強した永守は、音響機器メーカーのティアックに入社し、精密小型モーターの研究・開発の仕事に就いた。しかし、母親から学んだ永守の気性は周囲との軋轢を生む。
それでも精密小型モーターの開発に心血を注いで、入社3年で開発室の室長代行になっていた永守は、かわいがってくれていた当時の社長の谷勝馬に「自分に工場長をやらせて欲しい」と直訴した。谷は「能力は買っているが、せめて10年辛抱してくれ」と言った。これを聞いて、永守は辞表を出した。谷は引き止めようと努力したが、永守の意志は固かった。
社長の池田肇から直々のスカウトがあって、その年、山科精器に入社。すぐにモーター事業の最高責任者になった。しかし、入社翌年の1972年、モーター事業は別会社になり、永守は取締役事業本部長になった。入社2年目の27歳の若造に対する社内の風当たりは強く、上司と年中衝突した。
1973年、スカウトしてくれた後もかわいがってくれていた社長の池田肇に相談し、自分のやりたい夢があるのなら独立したほうがいいと言われ、山科精器を退職した。年齢はまだ28歳だった。独立に反対する母親に、「倍働く」と約束して、予定していた35歳よりもずっと早く独立し、日本電産を設立した。2階建ての民家の1階 120平方メートルが精密小型モーターの工場となった。
■三協精機の再建へ
2003年6月、東京三菱銀行から電話を受けた永守は、東京三菱銀行の首脳と会い、三協精機製作所の経営支援の要請を受けた。実現すれば、日本電産の23件目のM&Aということになる。
三協精機に時間の余裕はなかった。2003年9月中間期で、債務超過、会社更生法の適用申請をも視野に入れなければならないような情勢に陥っていた。買収交渉では、資産評価をめぐって、永守は厳しい追求をした。交渉がまとまったのは、2003年8月だった。日本電産が三協精機の第三者割当増資を引き受け、総額124億8480万円を払い込み、発行済み株式数の 39.8%を取得して、筆頭株主となった。
日本電産はノートパソコンなので使われる2.5インチ型 HDD用モーターでは高いシェアを持つが、携帯情報端末向けなどで成長が見込まれる 1.8インチ型以下用のモーターでは、三協精機のほうが日本電産より技術力は高いと永守は評価していた。三協精機の問題はコストだった。技術の場合、技術イコール人材だから最低10年かかるから簡単にはいかないが、コストであればマネージメントの問題だからすぐに直る。これが永守の読みだった。
2003年10月1日、永守は、下諏訪にある三協精機の本社敷地内にある体育館に全役員、社員を前に着任の訓示を行った。
三協精機が、高い技術力を持ちながら、コストが高いために、赤字になっていることを具体的に説明した。トヨタは1億円の売上げを上げるのに 410万円しか経費を使っていない。日産自動車はトヨタの3倍にあたる 1500万円を使っていた。カルロス・ゴーンは、つい最近 620万円まで下げた。ちなみに、日本電産が 447万円なのに対し、三協精機は 1000万円の経費を使っている。半分の経費で 1000億円の売上げを上げれば、それだけで50億円の利益となり、2年間の赤字は黒字化できると説いた。
かくして徹底した経費管理が行われた。「経費削減部」が新設され、1円以上の支出はトップ決裁というルールが導入された。2005年3月期の連結売上高は1180億円と、前期に比べ 10%強の増収となり、営業利益、経常利益とも80億円になる見通しである。
日本電産流のコスト管理を徹底すれば、すぐに利益は上がってくるというのが、永守の考えだった。これまで資本参加した企業の再建で、必ず収益面で効果が出たのは購買の仕組みの見直しだった。
これは日本電産の部品データベースに入っている調達コストと比較して、高いものは日本電産の調達先から買うようにする。三協精機の部品調達額は約600億円。これを 10%削減すれば60億円の収益改善につながる。永守の見たところ、20%は下がると踏んだ。そうすると、 120億円の収益改善効果があり、前期の赤字は消える。
永守の創業当初からの信条は「3Q6S」である。3Qとは、
- Quality Worker(良い社員)
- Quality Company(良い会社)
- Quality Products(良い製品)
のことだ。この3つのQを実現するための具体的な手法が6Sである。
6Sとは、『整理・整頓・清潔・清掃・作法・躾』の6つ。これを全社に徹底し、社員の質を高め、優良企業を実現しようという思いが込められている。
高い給与を払っておいて、少しでも業績が悪化すればすぐに社員を切り捨てる経営とは一線を引きたいと言う。永久雇用を原則とする日本電産では、生涯賃金で計算するよう社員に勧めている。若い時には給料が安くても、60歳、70歳で高い報酬があるほうがよいはずだと考える。その一方で、定着率なんか自慢にならない。一生懸命仕事をするいい人が残って、悪い人が辞めていく会社でないとダメだとも言う。
熱い生き方
ここまでやるかと、感心する創業経営者はかなりの人数いるが、永守氏はその最右翼だ。一年のうち、元旦の午前中を除いて、土曜も日曜、祭日も休む日はないらしい。もっとも、実を言うと社長業とはそんなものである。
この本のサブタイトルでもある「すぐやる 必ずやる 出来るまでやる」は、『やる3原則』として氏が徹底している内容だ。永守氏が自ら書いた著書がいくつかあるが、そのうちの2冊に、これとまったく同じサブタイトルがついている。本当に徹底している。強烈なリーダーシップに加え、こういう執念とも言える「しつこさ」がないといけないのかもしれない。
この本で紹介される三協精機全社員を前にしたスピーチは、「徹底したコスト削減」というドライな話のはずなのに、なぜか感動する。この会社を再生するという執念の裏側にある情熱を感じたせいかもしれない。永守氏の熱い生き方が伝わってくる。
氏は、母親から叩き込まれた考え方から、自身の経営思想や手法に昇華させているように見える。私たちは氏に学び、良いと思ったものは真似をして、より良い人生のために活かしたい。
目次概略
日本経済新聞社編『日本電産 永守イズムの挑戦ーすぐやる 必ずやる 出来るまでやる』の目次概略は以下の通り。
- ドキュメント 三協精機製作所再建
- 永守イズムの源流
- 永守流経営のエキス
- 素顔の永守重信