📖谷沢永一『宮本武蔵  五輪書の読み方』

前向き人生
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最も有名な剣術家

中学生のころ、ワケあって剣道部にはいっていた。得意としていたスポーツは陸上のスプリント競技や水泳だったが、部活動としてはそれらを選ばなかった。今になって思えば、剣道の稽古と試合を通じて日本の武道の一端を深く知ることができたことは人生のプラスだった。

日本で一番有名な剣術家は誰かと聞かれたら、大半の人は宮本武蔵と答えるだろう。宮本武蔵は、小説、漫画、映画、演劇やアニメにもよく登場する。刀2本を使う「二刀流(二天一流)」や、巌流島での佐々木小次郎との決闘での「小次郎、破れたり」のセリフは、とても有名だ。恐らく、吉川英治が戦前に書いた新聞連載小説『宮本武蔵』の人気により知られることになったのだろうが、この小説は史実に反する内容や創作も多いそうだ。

宮本武蔵がNHK大河ドラマに決まったころ、書店には、宮本武蔵に関する本がずらりと並んでいた。今回は、そのうちの一冊、谷沢永一著『宮本武蔵  五輪書の読み方』を取り上げてみたい。

著者の谷沢永一氏は故人。国文学者で関西大学文学部名誉教授だった。名言集や読書に関する著作が数十冊はあるので、氏の名前を目にする機会も多いだろう。本書は、宮本武蔵の人生指南書「五輪書」の哲学から、ビジネスマンにも通じる仕事、人間関係、成功の法則を、谷沢流に読み説く。

「五輪書」は「地、水、火、風、空」の5巻から構成されているが、武蔵が書き残そうとしたテーマは、最初の3巻でほとんど言い尽くされている。「地の巻」で二天一流の基本的な考えを述べ、「水の巻」で敵に勝つための自己鍛練を主に展開する。次の「火の巻」では、勝負のさまざまな駆け引きを説明している。これに対して、4つ目の「風の巻」では他流の批判で、つけ足しの感が強い。最後の「空の巻」も、書物の体裁上、結語をくっつけたようなものである。

仏教の宇宙観では、宇宙の構成要素を「五大五輪」と呼んでいる。武蔵は、口が酸っぱくなるほど、自分で考える以外に奥義・秘伝の修得はありえないと教える。一般に「五輪書」は相手に打ち勝つための技術論のように解釈されているが、技術論以上のものが包摂されていると著者は主張する。

敵の心をよく見届けて勝つ

宮本武蔵の「五輪書」が執筆されたのは、おそらく正保年間(1644~1648)であろう。時に天皇は後光明帝、将軍は三代家光である。武蔵は、正保2年5月19日、60歳でこの世を去った。

今から350年も昔の著作物が、21世紀の今日、はたして読み通す値打ちがあるのだろうか。多くの人は無用なりと突き放すであろう。しかし、著者は今だからこそ「五輪書」を取り出して真剣に読むべきときと思う。今の日本は、国民の精神が衰弱していること史上空前である。その原因は、政治の混乱と無節操にある。

しかし著者は嘆いてはいない。世相人心が落ちるところまで落ちたが、わが国の歴史に果てしなく続いた堕落の記録はない。退廃が極度に達すれば、かならずそれを元へ戻そうとするバネの力が作用するはずだ。

この回復は、精神に電流を通すような気迫のある人々の出現によって実現されていく。孤独な人間関係は、個人として自立する覚悟を求める。「五輪書」はまさにそのような覚悟を説いて世に処する道を示すのである。

家を立るに木くばりをする事、直にして節もなく、見つきのよさをおもての柱とし、少ふし(節)ありとも直につよきをうらの柱とし、たとい少よは(弱)くとも、ふしなき木のみざま(見様)よきをば、鴨居鴨居戸障子とそれぞれにつかひ、ふしありとも、ゆがみたりとも、つよき木をば、其家のつよみつよみを見わけて、よく吟味してつかふにおいては、其家久敷くづれ(崩)がたし。

(地の巻)

武蔵は兵法の道が大工にたとえられると考え、大工の技術を比喩に使っていろいろなことを諭す。ここでは材料、すなわち人材の登用の妙を示している。家を立てるとき、よい材料も悪い材料も、使いわければそれぞれりっぱに役に立つということを述べる。

元禄時代を頂点に新しい社会秩序が形成され、だれもが新しい人間関係を模索していた。「五輪書」の時代と現代は、この点について驚くほど似ている。当時、精神主義を排し、ひたすら実用を重んじる気風が強まっていた。

将であれ、宰相であれ、個人であれ、社会で生きていくためには、究極的に相手に勝つことが要求される。将たる者の心得も、一人の人間の心構えにたどりつくと武蔵は考えるのである。

又空なる事においても拍子はあり。武士の身の上にして、奉公に身をしあぐる拍子、しさぐる拍子、筈のあふ拍子、筈のちがふ拍子あり。或は商の道、分限になる拍子、分限にてもそのた(絶)ゆる拍子、道々につけて拍子の相違有事也。物毎のさかゆる拍子、おとろふる拍子、能々分別すべし。

(地の巻)

普段の生活や商いでも、あるいは舞踊でも、”場の拍子”いわばリズムがあり、それは武芸も同じであると説く。いいことになる拍子もあれば、悪いことに向かう拍子もあるとする。あらゆるものには、それぞれに個々別々の拍子があり、それを会得することが大事だという。

このあとに続けて「兵法の戦に、其敵其敵の拍子をしり、敵のおもひよらざる拍子をもって、空の拍子を智恵の拍子より発して勝所也」と述べている。敵が思いもかけなかったような拍子(いわば奇襲)の有効性を示す。それには、知略を働かせて、無形の拍子をとらえろという。

勝つには、自分の拍子を知り、相手の拍子を利用する。絶対絶命になった場合でも、つねに自分の拍子をつくらねばならないと教えているのだろう。

兵法の利において一人と一人との勝負のやうに書付たる所なりとも、万人と万人との合戦の利に心得、大きに見たつる所肝要也。此道にかぎって、少しなり共、道を見ちがへ、道のまよひありては、悪道へ落つるもの也。此書付ばかりを見て、兵法の道には及ぶ事にあらず。此書に書付けたるを、我身にとって書付くを、見るとおもはずならふとおもはず、にせ物にせずして則ち我心より見出したる利にして、常に其身になって、能々工夫すべし。

(水の巻)

一人と一人の勝負でも、関ケ原の戦いのような万人と万人が遭遇する天下分け目の対決と同じ大きな気持ちで臨まなければならないと教える。稽古事などでは、失敗してもそれが修行の一端ともなるが、剣術にかぎっては、一つ間違えば奈落に落ち込むことになる。

さらに、「五輪書」の読み方を教える。自分のためにだけ書かれたものだと心得ると同時に、学習と軽く思わず我と我が心より湧き出した秘法であるかの如く念慮し、自分流儀の工夫を重ねなければならないとしている。

景気を見るといふは、大分の兵法にしては、敵のさかへおとろへを知り、相手の人数の心を知り、其場の位を受け、敵のけいきを能く見うけ、我人数何としかけ、此兵法の理にて慥に勝つといふ所をのみこみて、先の位をしってたたかふ所也。

又一分の兵法も、敵のながれをわきまへ、相手の人柄を見うけ、人のつよきよわき所を見つけ、敵の気色にちがふ事をしかけ、敵のめりかりを知り、其間の拍子をよくしりて、先をしかくる所肝要也。物毎の景気といふ事は、我智力つよければ、必ずみゆる所也。兵法自由の身になりては、敵の心をよく計りて勝つ道多かるべき事也。工夫有るべし。

(火の巻)

まず戦う相手のことをよく知ることの大事さを説く。同時に、こちらの人数などの条件と比べ、状況(位)の判断を十分に心得て戦わねばならないと教えている。「敵のめりかり」にある「めり」と「かり」は、笛や尺八などで基本の音程よりも下げることを「めり」、上げることを「かり」という。要は敵のめりかりや、拍子をよく知って先手に出ることが肝要だとする。

景気は智力が強ければ必ず見える。敵の心をよく見届けて勝つ。それが兵法である。工夫せよと語る。

関ケ原の戦いで、西軍が敗れた理由は、石田三成が”理外の理”ということを知らなかったからである。明治になってから、ドイツの兵法の専門家メッケルが日本にやってきて、関ケ原の陣容配置図を見て「これは西軍の勝ちだ」といったという。

戦略上では絶対に勝てるはずだったのである。哀しいかな三成は、敵も同様に態勢を整備していたことに気づかなかった。敵情判断が甘く、それが徳川家康の東軍に敗れる因となった。内通者が出たことも敗因だが、内通者が出ると思わなかったところに、”理外の理”を知らなかった三成の失敗があった。

自分流儀の工夫を重ねる

大富豪としていつも世界で10番目以内に入っているラリー・エリソン氏(Lawrence Joseph Ellison)を知っているだろうか。米国の大手IT企業オラクル・コーポレーションの創業者だ。京都から宮大工を招き、自宅を和風建築にするほど日本かぶれで有名な人物。ある有名な経営者向け雑誌がエリソン氏の特集を組んだとき、彼はインタビューで「愛読書は五輪書」と言っていた。戦う相手には絶対に負けないという点で、エリソン氏と武蔵は共通する。彼は1977年のオラクル創業以来、敵の息の根を止めてきた人なのだ。

斬るか斬られるか。

武蔵はその極限的な緊張の瞬間、どうすれば勝てるかといったことを考える余裕などありえなかったし、考えたところで役に立つわけもなかったろう。そこには純粋な静けさがあった。そのような静けさを、禅僧のような悟りではなく、日頃から相手の状況を知り、自分を反省する泥くさい思考のくり返しによって到達したところに、武蔵の面目があるように思われた。

ビジネスマンとしての人生において、武蔵がいう「常に其身になって、能々工夫すべし」つまり、武蔵の境地に立ち、自分なりの工夫を重ねることを忘れないようにしたいものだ。

目次概略

谷沢永一著『宮本武蔵  五輪書の読み方』の目次概略は以下の通り。

1.拍子をつかんで、危機を突破する
「地の巻」を読む

2.静かなる心で、己に勝つ
「水の巻」前半を読む

3.相手を完全に打つ
「水の巻」後半を読む

4.「自分の利」「相手の不利」を知る
「火の巻」を読む

5.「スローガン主義」を斬る
「風の巻」「空の巻」を読む

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