カッコいい紳士
「白洲次郎」という名前を知ったのは20歳になる手前の18-9歳の頃だった。近代史で知ったとか、戦後のことを勉強していて知ったわけではない。なんとファッション誌で知ったのだ。
男性向けの某ファッション誌(情報誌)では、日本で最初にジーンズを履いたカッコいい紳士として、白のTシャツにリーバイスの501XXといういで立ちの白洲氏の写真が掲載されていた。女性向けの某ファッション誌で、イッセイ・ミヤケの秋冬コレクションを着た長身の女性モデルと長身の好々爺の写真を見ると、その好々爺は白洲氏だった。のちに調べてみると、ジーンズの写真は白洲氏が40歳代半ばで、イッセイ・ミヤケの写真は70歳代半ばらしい。素直に「これはカッコいいな」と思った。
それ以降、白洲次郎氏には非常に興味を持ち、手に入る書籍はほとんど持っている。NHKドラマスペシャル『白洲次郎』も録画して何度か観たくらいだ。書籍やドラマからは、ファッション誌で見かけたときのカッコよさとはまた別の、生き様としてカッコよさを知ることになった。
そこで今回は、白洲次郎氏について最も詳細な記録だと思われる北康利著『白洲次郎 占領を背負った男』を取り上げる。
白洲氏は、“歴史の黒子”というべき存在だった。終戦直後、占領下の政治の動乱期、吉田茂の側近として重要な役割を果たした。終戦連絡事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官を歴任、日本国憲法制定の現場にも立ち会った。
いち早く貿易立国を標榜し、通商産業省(今の経済産業省)を創設。 GHQと激しく対峙しながら、日本の早期独立と経済復興に多大な功績をあげた。明治35年(1902年)兵庫県に生まれ、昭和60年(1985)に亡くなった。イギリス留学時代に身につけた紳士の哲学「プリンシプル」を尊ぶダンディズムは終生変わらず、英国紳士を想わせる逸話も多い。
なお、夫人は、白洲次郎氏よりも広く名の知られるエッセイストの白洲正子氏だ。
戦後日本の復興に貢献
白洲次郎は、白洲商店を経営する大富豪の白洲文平の次男として、兵庫県武庫郡精道村 (現在の兵庫県芦屋市) に生まれた。昭和天皇生誕の翌年、1902年のことだった 。豪胆な性格の父を嫌っていたが、法外な額の小遣いを1年分まとめてもらい、破格の贅沢な暮らしをしていた。喧嘩は多かった。謝罪のために持っていく菓子折りが自宅に常備されていたほどだったという。
何不自由ない暮らしの中、両親の愛を一身に受けて次郎はまっすぐ育っていき、全国屈指の名門校神戸第一中学(現在の県立神戸高校)に進学した。しかし、一高や三高に進み、東京帝国大学や京都帝国大学に入学するのが当たり前という風潮に反発を感じ、暗記中心の詰め込み教育であることにも疑問を感じていた。
1919年に中学を卒業したが、次郎の成績では第三高等学校(現在の京都大学教養学部)にはとても合格できそうもない。兄・尚蔵は、京都帝国大学に進学していた。そこで父・文平は英国留学を勧めた。英国で受検勉強に専念し、ケンブリッジ大学の中でも最難関のクレア・カレッジに入学できた。
優秀な教授陣で知られるケンブリッジで、当初の成績は最下位に近かったが、猛勉強し2年目にはトップクラス入りした。恵まれた環境の中で、さまざまな知識を貪欲に吸収していったが、J.J.トムソンという優れた物理学者 (電子の発見で有名) のクラスで試験を受けた際のこと、テストの結果に自信を持っていたにもかかわらず、返ってきた点数は低かった。不満に思いながら答案を仔細にながめてはっとした。そこには「君の答案には、君自信の考えが1つもない」と書かれていたのだ。
「これこそ、オレが中学時代疑問に思っていたことの答えじゃないか!」次の試験では自分の意見を存分に書いて高得点をもらった。
1928年、年明けすぐ、兄・尚蔵から一通の電報が届いた。「シラスショウテントウサン、スグカヘレ」。白洲商店を倒産に追い込んだのは、昭和の金融恐慌で、取引銀行の第15銀行が休業したためだった。
すぐに帰国し、文平を喜ばせたが、債権者の取立てとの対応に、母・よし子にまかせ、自分はしょっちゅう家を空けて花柳界に憂さ晴らしに行く父を見て、父に意見する。怒った父とつかみ合いになったが、母に止められ、翌朝、東京へと向かった。
上京した次郎は、『ジャパン・アドバタイザー』という英字新聞社に就職した。1928年11月、昭和天皇即位の御大典が行われることもあって、日本の歴史や文化を外国人にわかりやすく紹介する連載記事を持たされ、相当の収入を得ることができた。そのほとんどは母に送った。
人の出会いとは実に不可思議なものである。牛場友彦という幼馴染がいたことで近衛文麿と親しくなり、一方、伯爵家のお嬢さん樺山正子と結婚したことにより、もう一つの決定的な出会いへと導かれていく。その相手こそ、戦後の大宰相「吉田茂」だった。正子の紹介で次郎が吉田に初めて会ったのは、次郎27歳、吉田51歳の時だった。
太平洋戦争開戦阻止に動く吉田や樺山、それに牧野伸顕(牧野は明治の元勲大久保利通の次男で、娘・雪子は吉田の妻) に、軍部は警戒していた。
次郎は、満州に続いて中国全土を占領しようかという破竹の勢いだった1943年、南多摩郡鶴川村(現在の東京都町田市鶴川)に移住した。近い将来、東京一円が空爆される可能性があること、間違いなく食糧不足になると家族に話をし、百姓をやると言い出した。次郎や正子が自慢するものだから、近衛文麿、秩父宮夫妻など、いろいろな人が鶴川を訪ねている。
いち早く疎開してきた頃には腰抜け扱いされたものだが、いつしか先見の明があるとうらやましがられるようになっていた。空襲は多くなり、すでに一面の焼け野原の東京を見るまでもなく、戦争が終わりに近づいていることは誰の目にも明らかだった。
昭和20年(1945年)8月15日、日本は敗戦を迎えた。東久邇宮稔彦王内閣の下で近衛文麿は国務大臣に就任した。次郎は近衛に、アメリカとの折衝役をやらせてもらえないかと嘆願した。しかし、近衛は慎重な姿勢を見せ、吉田茂を重用し始めた。
時の外相、重光葵が情報のマスコミ漏洩にからんでマッカーサーの逆鱗にふれ、辞任に追い込まれるという事件が起きた。次郎は、重光の辞任を絶好の機会と捉え、近衛に対し、吉田を外相にするよう働きかけた。吉田が外相になれば、オレに活躍の場を与えてくれる、次郎はそう確信していた。次郎は吉田に心服し、吉田は次郎を信頼し、その性格が好きだった。
外相になった吉田は、昭和20年(1945年)12月、次郎を終戦連絡事務局参与に任命した。終戦連絡事務局は、政府と GHQの間の折衝を行うために新設された役所で、自治権を取り上げられていた当時、あらゆる役所の中でもっとも重要な権能を担うことになった。そのため設立に当たっては、各省から俊秀が集められた。白洲次郎の名は中央ではまったく無名だった。実績もない次郎がいきなりこうした重職に就くことには、とりわけ官僚たちの間で強い反発があった。
次郎は、全身全霊でぶつかっていける場所を見出した。次郎の精神構造の中には、米国を軽く見る傾向があった。それは英国人が米国のことを、“所詮彼らは成り上がりだ”と軽侮するのにも似た感情であった。敗戦後とかく卑屈になる日本人が多かった中にあって、次郎は異色の存在だった。
情報の重要性を熟知していた次郎は、GHQの中で重要な役割を担っていた民生局の幹部との関係を深めていった。しかし、次郎はけっしてGHQ内で評判がよかったわけではない。口頭での指示を嫌い、すべて文書にしてくれるよう頼むなど、「Difficult Japanese」と呼ばれていた。おかしいことはおかしいと、はっきりものを言った。宮澤喜一元首相は当時を振り返って、「占領期間中、白洲さんはとにかくよく占領軍に盾ついていましたよ」と述懐している。しばしば大喧嘩にもなる。
彼の英語のうまさに感心したGHQのホイットニー民政局長が、「貴方は本当に英語がお上手ですな」とお世辞を言ったとき、次郎が「閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ」と切り返したというエピソードは有名である。
新憲法制定をめぐっては、日本側とGHQとのかけ引きは困難を極めた。次郎は、その交渉と憲法条文の英訳・和訳に深くかかわり、苦渋を味わった。
古関彰一は著書『新憲法の誕生』の中で、次郎の役回りに触れ、「憲法制定のこの役は結果的には“汚れ役”になったのだから、吉田が表に出ず、白洲にその役を演じさせたことで吉田はその政治生命をどれだけ救われたか計り知れない。白洲がいなかったとしたら、吉田はその数カ月後に首相になることはなかったかも知れない」と述べている。
次郎は率先して、“汚れ役”を買って出た。敵を作ることを恐れていては新しい国づくりなどできないと腹をくくっていた。だからこそ吉田も彼を重用したのだろう。天皇神権論に近い保守的政治家である吉田が全面に出てしまうと、GHQは吉田つぶしに出てくることは明らかだった。そういう意味では、次郎が吉田の方針に多少リベラルな内容を加味し、民生局との妥協点を探る努力をしたからこそ、吉田のGHQに対する発言力が維持できた。
その後も次郎は、経済安定本部次長(1946年)、初代貿易庁長官(1948年)、通商産業省創設(1949年)、東北電力会長(1951年)などの要職を歴任、戦後の日本の復興に大きな貢献をした。
戦後の日本社会は、けっして次郎の期待していた方向に進んだわけではない。次郎は「週刊朝日」(1976年11月18日号)のインタビューの中で、日本の現状を憂えて次のように語っている。
今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。それだけで警視総監にはなりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い。
数奇で人間臭い人生
ケンブリッジ大学在学中に、家業が倒産する。もし倒産していなければ、ケンブリッジに日本人の歴史学者がいるということで終わっていたかもしれない。しかし、運命は、幼友達の紹介で近衛文麿の知遇を得、お見合いで知った樺山正子と結婚して吉田茂に出会い、信頼を得た。敗戦がなければ、吉田が首相になることはなかったであろう。イギリスで身につけた英語力と日本人離れした感覚とセンスが、戦後のGHQとの交渉に役立った。
富豪の家に生まれ、何不自由なく育ち、閨閥を含め華々しい人脈に恵まれた幸運はあったとはいえ、子どもの頃からの性格と人との出会いの偶然とを白洲次郎の人生に見ることができる。
白洲次郎氏が吉田茂首相の側近として絶大な権力を振るっていたことから、マスコミからは「白洲天皇」「側近政治」「日本のラスプーチン」とも揶揄されていたらしい。マスコミの政治報道のレベルが低いのは今に始まったことではないようだ。
ちょうどその頃、経団連や日経連の委員でもあり、富士製鐵(今の日本製鉄)社長であった永野重雄と銀座のクラブでばったり鉢合わせしたことから取っ組み合いの喧嘩になった話は有名だ。ことの発端は戦争賠償の対象となっていた広畑製鉄所がGHQより日本側に返還されることになったことだ。
白洲氏はドル獲得のため広畑製鉄所のイギリスへの売却を主張した。対して永野重雄は「広畑製鉄所が取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか!」と富士製鉄社員に啖呵を切っていたほど、富士製鉄との合併を主張したとのことだ。
今では政財界の重鎮が「取っ組み合いの喧嘩」をするなど想像もつかない。ましてや、英国紳士の白洲氏と”戦後の財界のドン”である永野重雄氏の喧嘩である。この頃にスマートフォンが普及していたら、その様子をYouTubeで観れたかもしれない。残念でならない。
目次概要
北康利著『白洲次郎 占領を背負った男』の目次概要は以下の通り。
- 稀代の目利き
- 育ちのいい生粋の野蛮人
- ケンブリッジ大学クレア・カレッジ
- 近衛文麿と吉田茂
- 終戦連絡事務局
- 憤死
- “真珠の首飾り”ー憲法改正極秘プロジェクト
- ジープウェイ・レター
- 「今に見ていろ」ト言フ気持抑へ切レス
- 海賊と儒学者と実業家のDNA
- 巻き返し
- ケーディスとの最終決着
- 通商産業省創設
- 只見川電源開発
- 講和と独立
- そして日の丸は再び揚がった
- 素顔の白洲次郎
- 日本一格好いい男
- 葬式無用、戒名不用